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連載
隅田川を跨いだ東京の下町に位置する「墨東」は、文字通り〈破壊と再生〉を繰り返してきた地域だ。
江戸以来の埋め立て地として形成されてきたこの低地は、関東大震災と東京大空襲という二度に及ぶ圧倒的な破壊からその度に頭を擡げてきた。また、永井荷風が『濹東綺譚』で描いた「玉の井」のように、川堤の境界を超えることで江戸の制度から自由であったこの界隈は私娼窟の密集する悪所でもあった。むろん現代においてその名残は薄いが、狭い路地や細い小径に当時の面影はなお漂っている。
さらに約20年前に設立された「現代美術製作所」を端緒として、現在に至るまで墨田には数多のギャラリーやアトリエ、アートスペースが生滅しており、オルタナティブの歴史が厚く堆積している。かつての町工場や古民家といった空きスペースを活用することで常にアーティストやクリエイターをはじめとした人の流入があるのだ。
東東京のランドマークとしてすっかり定着したスカイツリーの根元では再開発が進み、真新しいビルやタワーマンションが散見される。とはいえ新旧の住宅と人とが入り混じったこのエリアには、未だ生き物のような有機性がかろうじて宿っているかのようである。……
住宅街の奥まったところにある小さな印刷工場の隣、長屋の一角を占めているのがあをば荘だ。6年に渡り運営されているそのオルタナティブスペースで開かれていたのが、新井五差路、百頭たけし、藤林悠による写真展「PERSISTENCE」である。
展示タイトルに示されている通り、三名は共に「風景」を主体とした写真を「執拗に」撮り続けている作家だ。その上で、本展は「私たちはなぜ、他の事象を差し置いて「風景」に惹きつけられるのか?」という問いを起点として企画されている。
空間に入りまず目を引くのは、99枚に及ぶ三作家の写真がランダムに配された壁面だ。新井は「人工物が自然に劣化した状態とか、植物が面白い形をしているのとかを見ると感じる」「うろうろ歩きまわりながらいいなと思った風景を撮」り、百頭は「東京の周辺に点在する土木業者やジャンクヤードが集まる地域で」「人為と偶然が脚色した特異な風景を」記録し、藤林は「「撮ってくれ」と言ってくるような感覚に陥る」「日常生活の中で iPhone によって撮影した景色」を展示している(「PERSISTENCE」ハンドアウトより)。もちろん各々の切り取り方に差異はあれど、しかし三者の写真に表れた「風景」に共通しているのは、それらがおしなべて所謂〈美しい風景〉や〈絶景〉では無いことである。
例えば藤林の《705,304》は、かつての住居と現在の自宅の天井にある円形の蛍光灯を撮影した組写真だ。それは日々誰もが目にし得る何の変哲も無い被写体である。しかし、普段は意識に登らずとも身の回りに当たり前に存在している事物を改めて主題化することによって、ミクロには細胞、マクロには惑星のように見える抽象性も含め、私たちに常に既にまとわりついている「風景」に対する彼女の気づきを溌剌と伝えている。それらは決して「ピクチャレスク」(ウィリアム・ギルピン)ではないが、否、ではないがゆえにこそ「風景」の持つ原理的な遍在性を露わにしているのである。
また、左頁に写真プリント、右頁に文章を配した木製パネルが一冊の本のように綴じられた新井の《IMAGE AND TEXT》は、人工物と自然物で構成されるありふれた道端の「風景」を捉えた一枚の写真を「執拗に」記述しようと言葉を尽くす。具体的には冒頭に「雪(1)が積もっている。囲い(2)の向こうにいくつかの建物(3)があり、囲いと建物の間には重機(4)が置かれている。建物の向こうには電柱(5)が見えていて、電線が張られている。空は曇っている(6)。」とあり、さらにその各注に対して「見たもの」の詳細な描写が続いている。
この徒労にも似た試みは、カメラのレンズという機械の眼を通して切り取られたイメージを言語によって分節化する作業だが、しかしそのメディウムの移行過程において、指の隙間から零れ落ちる砂のように無数の情報が減損してしまうことを免れ得ない。なぜなら「風景」とは視覚の主題たる「図」だけでなく、その背景に無辺際に広がる「地」をも含めた総体だからである。「現実」(レアリテ)そのものの客観的・対物的な描写を企図したヌーヴォー・ロマンの小説家アラン・ロブ=グリエがやがて映画を撮り始めたように、たとえ一枚の写真という有限な画面であれ、そこには言葉で言い尽くせない全て——換言すれば世界そのもの——が写り込んでしまっているのだ。
しかし、如何に完全なる言語化が不可能であろうとも、清水真木が『新・風景論』においてフッサールを引きながら「地平だったもの」と完了形で定義するように、「風景」とは事後的に語られることではじめて創出されるものである。それまで何でもなかった景色にふと襲われることでそれが何らかの価値を帯びた全体と化す、その不可逆的な経験を見つめ直す営みそのものから「風景」は立ち現れるのだ。
そもそも「風景」は、柄谷行人が看破したように、近代的な視座から「内的人間」によって倒錯的に「発見」されたものである(『日本近代文学の起源』)。その意味で新井の《IMAGE AND TEXT》は、日常に遍在する事物から直感的な価値判断を伴って「発見」されたイメージを機械的な筆致によるテクストとして捉え直そうとする、本質的な「風景」の制作なのである。
最後に、空間中央に突き出た蛇口の前に雨曝しにされた挙句にターメリックを振りかけられたというターポリン印刷の写真と、二階の暗く狭く足元が覚束ないスペースに夜の写真を設置した百頭の作品は、展示空間に「現地」を召喚しようとする試みだったのではないだろうか。
たしかに百頭は、意図してジャンクヤードに赴き「特異な」景観を記録するという制作スタイルゆえ、私たちの周囲にある日常というより偶発的で混沌とした情況を蒐集し続けている。しかし、それは決して〈美しい風景〉や〈絶景〉ではあり得ない。むしろ私たちの生活圏すべてにおいてあまねく浸透しつつある作りものめいた景観の裏側に隠れた「現実」を、剥き出しにして突き付けるのだ。
それらを踏まえた上で横たわっているのは、プリントされ展示された「風景写真」を観るという体験の虚構性だ。厳密に言えば、あくまで「風景」とは「現地」でしか経験不可能なものである。匂いや空気、天候、体調や気分、そしてそこまでの道のりといった「現地」の持つ無数のノイズ(=世界そのもの)が排除された「風景写真」は、純粋な視覚情報として提示された平面の図像に過ぎないからだ。
もちろんプリントされた時点でそれらは印画紙の厚みを伴った物質と化すが、しかし百頭はその表面にさらにマチエールを重ね、あるいはサイトスペシフィックに設営することによって、展示空間に「現地」を仮構する。それは百頭が常々「仏性や神性」「粗暴で素朴なアニミズムの発現」を注視し、今展では殊にヒンドゥーの祭礼に感化されていることからも自明なように、〈聖地〉の擬似的な再現である。そこで私たちは写真を通してその「風景」を撮影した「現地」=〈聖地〉を追体験し、さらにはそれらが展示された空間を通して別なる「風景」に出会う、という入れ子状の経験に与ることとなるのだ。
斯様な鑑賞を経ることで、この展示自体が一つの「風景」として浮かび上がろう。言うまでもなく、筆者はその経験をこのように記述することで「PERSISTENCE」における自身にとっての「風景」の獲得を企てている。