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連載
1964年のオリンピック開催直前に開通した東京モノレールが湾岸を滑っていく。天王洲アイルを越えると海上にあらわれるのは孤島のように浮かび上がった団地群だ。少なくとも数十棟はあって一つの独立国家みたいに見えてくる。大井競馬場前駅で下車して海に架かった巨きな橋梁を跨ぐと、「品川八潮パークタウン」の入り口にさしかかっていた。
埋立地として開発されたこの町は昭和58年に“まちびらき”したという新興の郊外都市だ。箱型の均一な集合住宅に囲繞されながらなだらかな勾配の舗道を進んでいくと、どんどん遠近感が狂ってきてここがどこなのかわからなくなってくる。ほとんど迷路じみた道々をそぞろ歩いていれば、しかし町のつくりが顕にもなってきて、歩道橋によって結ばれた幾つもの住区には学校や保育園、病院、公園が散りばめられており、中心部には郵便局やコンビニ、そしてスーパーやホームセンターを擁するちょっとしたモールが据え置かれていた。
“外”に出ずとも何不自由なく生活を完結させられる利便性を有し、その反面どこか窒息感も抱きかねない計画的に設計された街並みは、高度経済成長期から東京五輪や大阪万博を経てひとまず達成された日本的近代が、70年代以降、ニュータウンやロードサイド、そして埋立地においてスプロール化していった郊外社会の「原風景」である。都市でも地方でもなく、そのどちらからも周縁化された両義的な場所として全国的に拡がっている郊外を見つめ直すことは、五輪・万博と半世紀前の再演を企てつつある現在の社会状況をかんがえることに遠からず繋がっていくはずだ。……
そんな八潮の一角にある団地内集会所で開かれていたのが、『変容する周辺 近郊、団地』展である。協力にはUR都市機構がクレジットされているが、実質的にはSIDE COREと新進のキュレーター・石毛健太による極めてインディペンデントな企画だった。未だ両親も居住しているこの団地で育ったという石毛は、造成時から数多の社会的な節目を超えてきた現在、「そこに暮らす人々の暮らしと文化は変化しはじめている」と捉え、単なる「中心の周辺」ではなく、新たなる「異形な文化」が立ち上がる場所として「団地」を提示しようと試みている。(「展覧会コンセプト」より引用)
事実、そういったキュレーションにもとづき選出された作家たちの作品群は、様々な視点を通して団地的なるものを明瞭に示していた。
たとえば展示会場のみで接続することができるWiFi「玄関を出ると」を拾うとWebページ上で鑑賞できる垂水五滴の《玄関を出ると100の玄関が見える》は、団地の外形よろしくグリッド上に区切られた各ボックスに収められた幾つもの短編小説で構成されている。ひとつひとつの物語は団地の一角に住む人たちの送る日常を描いた他愛ないものだが、それらがポリフォニックに響きあうことによって住人たちの生の固有性が自ずと了解される。建築的には全く均質な箱の中で生活している人々が、しかし当たり前に各々別個の人生を送っているということに気づかされるのだ。
さらにその物語を下敷きとしてryusei etouの《n階から目薬》がある。一棟の団地のごとく積み上げられた6つのディスプレイには、エレベーターホールや団地の一室、ベランダなどを模したCGアニメーションの風景が映し出されている。一見すると実写とも見紛う写実的なCGであるが、しかし注視していると電子レンジが自動的に明滅し、卵が宙に浮き、蒲団が降ってくるといった非現実的なフィクションの要素が紛れ込んでいる。団地という「終わりなき日常」(宮台真司)に依拠しながらもそれを僅かにずらすことで、そこに隠された非日常性の機微を浮き彫りにするのである。
斯様に「団地」や「郊外」には、鳥瞰した“公”的な視座からは見渡せない細部が宿っている。団地のひとつひとつ、一部屋一部屋、一人一人の“個”の視点を繊細に掬い上げれば、多様性を帯びた豊かな物語が立ち現れるのだ。
その多様性をより“個”に寄り添って描いていたのはBIENとやんツーだろう。BIENの《Growing Hollow》は、団地の棟に見立てられたクレート(木枠)の中で取り残され、そのまま成長してしまったかのような巨大なフィギュアをイメージさせる立体作品である。この囚われの玩具が示唆するのは言うまでもなく団地で生まれ育った子供たちの成長と別離だ。大友克洋の『AKIRA』や『童夢』(童の夢!)を連想させもする肥大化したキャラクターの亡霊は、団地の経年や住人の流出、少子化といった社会的事象への問いを寂寥感と共に投げかけている。
一方でやんツーは高齢者の側から団地を再認識する装置を仕込んでいた。彼の出身地である神奈川県茅ヶ崎の団地に今も居住している父親へのインタビューと、その言葉の切端が父親のツイッターアカウントからつぶやかれるプログラムで構成される《音声入力機能を用いた自動つぶやきシステム》は、高齢化する団地のリアリティを当事者の声を媒介として鮮やかに拾い上げる。かつて先進的なライフスタイルの舞台を象徴していたニュータウンや団地も、さながら若い核家族が老夫婦となるように歳月を重ねてきている。老朽化・廃墟化などと指摘されがちなこの問題も、しかしインタビューを見聞すれば、団地の近隣や地域と関わりながら平穏な日々を送る一人の老父の姿が見えてくるのだ。
これら歴史的・時間的な縦軸を導入し、団地の過去を辿り直すことで現在を照射する作品に対して、横軸の広がりから団地の現在の多様性を捉えているのは、名越啓介とEVERYDAY HOLIDAY SQUADだった。それは、まさしく目に見える形での多様化=多国籍化としての「移民」である。
先の国会で外国人労働者受け入れを拡大する入国管理法改正案が強行採決されたものの、現今の外国人技能実習生たちの劣悪な労働環境や不当拘束など未だ議論が喧しい移民を巡る諸相は、極めて現代的な問題に他ならない。なにより、その現場の一つは団地なのである。住人の約半数を中国人が占める埼玉県・蕨の「川口芝園団地」に代表されるように、“旧住民”と“新住民”のみならず、郊外社会は移民も含めた新たな「混住社会」(小田光雄)の様相を呈していると言って過言ではない。
その意味で名越啓介の写真シリーズ《fammilia》はビビッドだった。そこに写し取られた風景やポートレートは、ブラジル人を中心に3000人以上の外国人が暮らす「保見団地」(愛知県豊田市)に3年に渡り住み込んで撮影されたものだという。であるがゆえにこそ、写真の中のブラジル人たちは決して紋切り型の移民像には収まっていない。ホームパーティであったりカップルのベッドであったりと、映画『サウダーヂ』(空族)も想起させるそのプライヴェートな場面場面には、日本という“異郷”における移民たちの生々しい暮らしぶりが、「同居人」としての視線を通して活き活きと刻み込まれている。
むろん多国籍化の流れは八潮パークタウンでも例外ではない。EVERYDAY HOLIDAY SQUADの《curry life》は、八潮の住人たちからレシピを募り、それを元に調理された各家庭のカレーを来場者に屋台で振る舞うリレーショナルな作品である。手書きのレシピは多言語であり、現に日本人のみならず、アメリカ、マレーシア、バングラデシュ、南インドなどから約10種類が集められていた。庶民的であるがゆえに細分化され、世界的に食されてもいるカレーには、世帯の数だけレシピが存在するのかもしれない。その無数の「オルタナティブなカレー」が、味覚を通して“いま・ここ”の団地の混住性を私たちに知覚せしめるのだ。
これら個々の眼差しから縦横に引かれた座標軸をもって、本展は郊外・団地の文化的な「異形」や「変容」の一端を炙り出すことに成功していると言えるが、最後に自作についても言及しておこう。
本展には筆者も作家として参加し、HIPHOPカルチャーを扱った作品を2点出品していた。八潮パークタウン内で撮影し、近未来の荒廃した架空の東京をラップしたMV《Scrap, Run & Build》と、ニューヨーク・クイーンズの“プロジェクト=公営団地”出身のラッパーNas、そのクラシカルなアルバム『illmatic』の有名なジャケットをオマージュしたペインティング《N.T State Of Mind》だ。HIPHOPがその起源に“ブロックパーティ=団地の祭り”を擁することは言を俟たないが、実際、本展の関連企画として地元の祭りに自身のユニットStag Beatとして参加させてもらったのだった。
https://www.youtube.com/watch?v=wa0kaN9zCfg
結果、自治会主催の「にこぴん秋祭り」(日本語ラップシーンにおける記念碑的イベント「さんピンCAMP」との押韻的聯関?)にて「赤ちゃん公園前」(“B BOY PARK”ならぬ“BABY PARK”?)の集会所で行われたイベント「音楽会」(!)において、おばあさんたちのマンドリンアンサンブルと音楽健康指導士さんの音楽体操を対バンとして、スピーカー代わりのカラオケセットにサンプラーを繋ぎ、マイクを握って、着席した老人たちや小さい子供連れの母親たちを前に、手拍子に合わせてライブを敢行した。
この頗るオーセンティックな場で、最後に無理やりスタンダップしてもらった客席が手を挙げて上下に降っていた光景は、今でもよく覚えている。