渡し舟の上で
Sur la barque des passeurs
第4回
現存被曝状況*から、現存被曝状況へ
entre deux situations d'exposition existante
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- 編集部から(第2回より)
- 親愛なるジャック
- この間のあなたのお手紙は、高井潤さんの撮影したあなたの写真が添えてブログに掲載されましたね。
オルマニーのあなたと同じように、高井さんも末続の暮らしの写真を撮り続けています。どこにでもある、けれど、だからこそかけがえのない、その場所の暮らしと、人々の表情です。高井さんが撮った写真を見て、末続のお年寄り達は、オルマニーのお年寄り達とまったく同じように喜びました。口を揃えて、「あの時」のいい写真ができた、と晴れやかな顔で言うのです。「あの時」、つまり、葬儀の時に飾るよい写真ができた、と。日本では、墓地には写真を飾りませんが、葬儀の祭壇に故人の写真を飾ることは一般的に行われます。以前、あなたは、晴れ着を身にまとってポートレートを映してもらいに来たオルマニーのお年寄りのことを、私に話してくれたことがありましたね。オルマニーから遠く離れた末続で、同じエピソードが再現されるのを目の前にして、私はとても驚きました。そしてそれと同時に、国や文化が違えども、生と死にまつわる人の営みが共通することの不思議に、深く感じ入りました。地に生まれ、根付き、生き、地に死ぬということ、暮らしの写真は、そうした人間の普遍的な営みを浮き上がらせてくれているように感じたのです。この営みこそが、あなたのよく言う、人々の暮らしの「尊厳」なのだと思いませんか? 暮らしの写真に映し出されるのは、放射能汚染地に暮らす、誰かに助けを求める哀れな被災者ではなく、その地で営まれる平凡で、だからこそ、なにをもっても代えることのできない譲渡不可能な確かな生の姿です。第三者から見れば、映し出される暮らしのひとつひとつの出来事は、些細な、取るに足らない、どこにでもあるものに過ぎないでしょう。日々の繰り返しであるがゆえに、多くの場合、本人たちにとってさえ、特筆すべきものはなにもないと思われているかもしれません。けれど、そのなんてことのない日々の繰り返し、どこにでもあるものの中にこそ、何よりも大切なその人らしさ、その暮らしのよさがあるのだと、私は思っています。暮らしは、繰り返されるごとに、深く刻み込まれ、やがて他のなにをもっても代えることのできない、豊かな表情をたたえる、私にはそのように思えてならないのです。
私が、あなたの撮ったオルマニーの写真を最初に見たのはいつだったか、今は、はっきりと思い出せません。初めてあなたと会うよりも前のことだったかもしれません。とにかく情報が欲しくて、必死にインターネット上の資料あさりをしていた頃だったような気がします。最初に見たのは、あなたの写真集『オルマニーへの眼差し』(Regards sur Olmany)の一番最後のページにある、窓越しになにかを見つめる老人の写真です。(今はサイトデザインが変更になっていますが、以前、CEPNのETHOSプロジェクトを紹介するページで使われていましたね?) 私は、一目で老人の眼差しの深さに心奪われました。彼は、おそらくごく普通の暮らしを営む一人の男性に過ぎないでしょう? なぜ、その彼が、生と死の交差する場所を見つめるような眼差しをするのか。彼の諦め、絶望、悲しみとともに懐かしさが入り混じったような眼差しに、私は心奪われると同時に、不可解でなりませんでした。けれど、ノルウェーのヴァルドレスとベラルーシのブラギンを私自身が訪れることで、彼の眼差しへの不可解な思いは氷解しました。その経緯は、前回のお手紙の通りです。生への愛おしさと、生への愛おしさのもう一つの側面である深い嘆きが、写真の男性の眼差しを深いものにしていたのでしょう。私には、シュマトヴの絵が描き出した深い嘆きを、写真の男性はその目に湛えているように見えたのだと思います。
- 好むと好まざるにかかわらず、私たちは樹木であり、自らの根を支えとして土から出で、エーテルに花を咲かせ果実をもたらすべきなのだ。(ヨハン・ペーター・ヘーベル、作品集より)
- "Regards sur Olmany : La vie dans les territoires contaminés par l'accident de Tchernobyl"
http://ethos.cepn.asso.fr/static8/olmany
ブラギンの歴史博物館で、シュマトヴの絵を見たときの感覚を思い出します。あの時、私はまだ、シュマトヴの絵が描き出すものの意味も、絵を目の前にして自分の内側にこみ上げてきた感覚が何なのかも、理解できていませんでした。けれど、今では、はっきりと分かります。彼の描いた人物達の嘆きの表情、防護服姿の気味の悪い人間、立入禁止を示す窓に打ち付けられた板、これらのイメージは、深い嘆きを象徴すると同時に、おそらくはその底に憎悪の感情を潜ませています。特定の誰か、何かに対する憎悪ではなく、事故とそれに派生して起きた様々の出来事すべてに対する嘆きと憎悪です。それに気づいた時、私もまた、自分の中に、同じ感情があることに気づいたのでした。シュマトヴの絵を目の前にして、こみあげてきた得体の知れない感情は、私のうちに潜む憎悪だったのだと思います。
シュマトヴの絵だけでなく、ブラギンの歴史博物館は、私の心に強く刻まれることとなりました。博物館の中には、チェルノブイリ事故の消火活動で殉職した消防士たちの展示室もありますね。そこで、私は、とある人に「再会」したのでした。当時25歳で亡くなった、ブラギン出身のヴァシリー・イグナテンコ消防士です。正確に言えば、私が知っていたのは、彼の奥さんでした。福島での原発事故が起きるよりも遙か前、たぶん10年近く前だと思いますが、私は、たまたま深夜のテレビで放映された彼の奥さんのドキュメンタリー番組を見ていたのです。そのドキュメンタリーは、海外制作(おそらくロシアだと思います)で、悲劇的な事故から10年ほど経過した後の奥さんを取材したものでした。私の記憶の限りでは、通り一遍に被災者の悲劇を視聴者好みに描くのではなく、彼女に起きた出来事を丁寧に取材したドキュメンタリーでした。ずいぶん昔に見た映像であったにもかかわらず、福島の事故の一報直後からずっと、私はフラッシュバックのように繰り返し繰り返しこのドキュメンタリーのことを思い出し続けていました。
ドキュメンタリーの内容は次のようなものでした。プリピャチに暮らしていた消防士イグナテンコは、それが原子炉の事故であるとも知らず、無防備に消火活動に出かけ、即死しかねないほどの高線量の放射線を浴び、事故から1週間後の5月3日に亡くなりました。その時に、奥さんのお腹の中には子供がいました。消火活動直後、自分に起きたことをほとんど知らされないまま、夫はモスクワの病院に現場から直行で入院させられました。禁じられていたにも関わらず、妻は病室に毎日通い、弱っていく夫の看護を続けました。急速に悪化していく体調の中、唯一、その名を考えるときだけは夫が楽しそうにしていたという彼女のお腹にいた子供も、夫亡き後、流産します。事故後のソ連崩壊の混乱で、生活の再建も補償もままならず、不如意な生活を送る様子がドキュメンタリーには描かれていました。ドキュメンタリー監督のインタビューに対して、彼女が、所在ない表情で「あの頃、私は若すぎて、愛がなんなのかもわからなかった」と語ったシーンを鮮明に覚えています。そして、もっとも印象深かったのが「私、あの時、どうすればよかったの?」と彼女が呟き、道を歩く様子でした。彼女は確かに地面に足を着いている、そのはずなのに、宙に浮き上がっているかのように見えました。まるで影を失った人のようであった、とでも言えばいいのでしょうか。このような人間の絶望の姿を、私はそれまでに見たことがなく、深い衝撃を受けました。心を強く捉えられ、しばらく考え続けました。彼女の絶望は、他の絶望と、どこが異なっているのか。やがて気づいたのは、彼女は夫を失っただけでなく、住んでいた場所を追われ、暮らしをまるごと、夫との思い出も、なにもかも根こそぎ奪われたのだ、という事実でした。彼女が失ったのは、彼女が拠って立っていたすべてです。夫、家族、生活の場所、思い出の品、そして記憶さえも。核災害のもとでは、記憶でさえ、立入禁止の汚染地として、かつての愛おしむべき色彩が、くすんだ色合いに塗り替えられてしまうのです。あのドキュメンタリーに描かれていたのは、他に類を見ない、根こそぎ暮らしを、暮らしの尊厳を奪われるという悲劇だったのでしょう。これが、私のチェルノブイリ事故被災地の人との初めての出会いでした。
福島で事故が起きた時に、私は、このドキュメンタリーを鮮明に思い出し、日本で、この場所で、私のすぐ側にいる人たちに、彼女と同じような状況が起きるのかも知れない、という現実に震撼しました。恐怖したといってもいいと思います。それが、その後の私と私の行動を駆り立てるもののひとつとなりました。
ブラギン歴史博物館の展示室に入り、ガイドの若い女性から解説を聞くまで、私は、イグナテンコがブラギンの出身であることを知りませんでした。ガイドの女性が、事故の時の消火活動に従事した消防士について、次いで、奥さんについて説明を始めた時に、私は、イグナテンコ夫婦が、自分が見たあのドキュメンタリーに登場していた夫婦なのだと気づき、思わぬことに、激しく動揺しました。なにかに招かれてここに来ているかのような感覚に襲われました。ひと言で言えば、この出来事から私は「逃げられない」のだと思いました。動揺が収まらないまま、ガイドの女性に、奥さんの現在の様子を尋ねました。ドキュメンタリー映像でのあまりの生気の薄い様子に、もしかするともう存命ではないのかも知れない、と内心恐れながらでしたが、元気で今はキエフに住んでいる、との答えでした。そして、この展示室がオープンするときに、彼女も招かれて参加したのだ、と教えてくれました。私は、それを聞いて、心から安堵しました。もうひとつ、私は尋ねました。「イグナテンコは、ブラギンの人々から敬意を抱かれているのですね?」と。ガイドの若い女性は、なぜそんな当たり前のことを聞くのか、というような真っ直ぐな眼差しで、強く頷き、淀みなく「そうです(ダー)」とひと言、答えました。展示室の天井からは折り鶴がぶら下げられていました。(数年前に、日本のドラマかなにかが放映されたことがきっかけで、折り鶴がベラルーシでも流行したのだそうです。)
その時、傍に誰もいなければ、私は、床に伏して声を上げて泣いていたでしょう。根こそぎ奪われた彼女の生活は、決して元に戻ることはなく、奪われたものも二度と戻らない。それでも、ブラギンの人々は、こうして悲劇を分かち合い、未来に伝えることにより、悲劇を彼らの歴史の一部に取り込もうとしていました。それは、彼女たち夫婦や、同じように暮らしを失った人々の悲劇は、他の人々にとっても、決して無意味なものではないという意思表示であり、そうすることによって、そうした人たちの尊厳を回復させようとしているのだと、私には感じられたのです。涙を堪えながら、もしかするとそれでも十分に泣いていたかもしれませんが、心の中で、会ったことのないイグナテンコの妻に「よかったね、よかったね」と話しかけていました。
彼らの悲劇を説明してくれるガイドの女性は、おそらく事故を経験していない若い世代でした。彼女は、自分が伝えることの意義を明確に理解しているように私には感じられました。悲劇の過去を、ただ悲劇のままに捨て置いて風化にまかせるのではなく、自分たちの受け継ぐべき歴史として、未来に語り伝えようとする強い意志を彼女は持っていました。これもまさに、あなたが先の手紙に書いていた、死の記憶を生の側に取り返す、容易ならざる挑戦であるのでしょう。そして、ガイドの女性の強い意志のこもった眼差しは、ブラギンの人々が、この困難な挑戦に成功することを私に確信させるものでした。あなたの前回の手紙を読んだ後、この時の自分の経験を反芻して、ようやく理解することができました。私がこの時に受けた衝撃は、ブラギンの人々が、喪失からの回復がもはや不可能と思える悲劇に対しても、悲劇そのものを歴史に取り込み、未来へ繋ぐことによって、彼らの歴史の一部として生の側へ取り戻そうとしていることによるものだったのだと。
そう、実際に、あれだけ濃厚な死の気配に彩られた、カタストロフの記憶の場所を訪れながら、結局、私の中に最終的にもっとも強く残ったのは、ガイドしてくれた女性の強い眼差しだったのです。それを、私たちはきっと「希望」と呼ぶのだと思います。
ブラギン歴史博物館訪問の経験は、いつかあなたに伝えたいとずっと思っていながらできないでいました。こうして今、お伝えできて、ほっとしています。あの小さな歴史博物館は、ブラギンの人々にとってそうであるように、私にとっても、あの時からずっとかけがえのない場所です。
福島は例年通りの寒い冬を迎えています。寒さの中にも、木々の枝の先端が少しずつ色づいてきているのを、毎日見ています。もうすぐ、またあなたに会えることを楽しみにしています。
2015年1月26日
澄んだ青空が見えた日に
安東量子
- Dear Jacques,
- I saw the blogpost of your reply to my letter, posted together with your photo taken by Mr. Jun Takai.
Mr. Takai has been recording the people's lives in Suetsugi just as you did in Olmany. He focuses on the way people live in Suetsugi, and the look on their faces. These are what you would call ordinary folks and ordinary lives, nothing special, something that exists anywhere, but all the more precious for that reason. When the elderly residents of Suetsugi saw Mr. Takai's photos, they were delighted, just like the elderly residents of Olmany. They would chorus the same comment with twinkle in their eyes, "Oh, this would be a great picture for 'the day'!" "The day" means their funeral. They were delighted to have a great picture for their funeral ceremony. In Japan, we do not adorn graves with photographs, but the photograph of the deceased person is usually placed on the altar during the funeral ceremony. You once told me about the elderly residents in Olmany, who wore their best clothes to have photos taken by you. I was very surprised to see your story becoming real in Suetsugi, so far away from Olmany. At the same time, I was deeply moved by how people behaved similarly in times of birth and death, regardless of the differences between countries and cultures. To be born in a certain land, to take root, to live out, and to return to soil--the photographs of the lives in the villages seemed to highlight the universal life patterns of people. Don't you agree that these life patterns signify what you often refer as the "human dignity"? The photos of these peoples' lives do not show pitiful victims crying out for help; what they show are portraits of people living ordinary lives in their land, lives that are ordinary, but not interchangeable with anything else because of their ordinariness. From the eyes of an outsider, each episode of their lives in the photograph may seem small and common, with no unique value. Because they are everyday episodes repeated daily, often the people themselves do not see these events as anything noteworthy. However, I feel that only within the routine of uneventful days and ordinary lives are hidden the real joy of life and the uniqueness of the person. The seemingly common episodes of ordinary life, by being repeated over and over again, carved marks that get deeper every time, which, in time, turns into unique and idiosyncratic engraving with deep expression, which cannot be replaced with anything else in the world.
Right now, I cannot recall when it was that I first saw the photographs you took in Olmany. It may have been before I met you in person. I believe it was when I was frantically looking for information on the internet. The first picture I saw was the photo on the final page of your book, "Regards sur Olmany," of an old man who is peering through a window. (I believe it was used in the webpage introducing CEPN's ETHOS project before the website design was changed.) At once, I was taken aback by the deepness of his gaze. He must be an ordinary man, leading ordinary life. Why did he wear such expression, as if his eyes were set on the point where life and death crossed? His glance, which seemed to contain resignation, despair and grief, yet was as if he was looking at something old and dear, captivated as well as puzzled me. And, I found the answer to this puzzle through my visit to Valdres, Norway and Bragin, Belarus, which I wrote in my previous letter. I believe his glance had to take on such deepness because he had both passionate endearments for life as well as its inevitable companion, deep sadness. I also believe that I saw the deep sadness which V. F. Shmatov drew in his paintings in the eyes of the man in the photo.
- We are plants which--whether we like to admit it to ourselves or not--must with our roots reise out of the earth in order to bloom in the ether and to bear fruit. (Johann Peter Hebel, Works, ed, Altwegg III, 314)
- "Regards sur Olmany : La vie dans les territoires contaminés par l'accident de Tchernobyl"
http://ethos.cepn.asso.fr/static8/olmany
I remember the sensation when I first saw Shmatov's painting in the National History Museum of the Republic of Belarus in Bragin. At the time, I hardly understood the meaning of what Shmatov tried to depict, or, was aware of the senses that the paintings aroused in me as I stood in front of the paintings. But now I know. The sad expression on the faces of people, the sinister men in protective suits, the boards on the window showing off limit zone, these images Shmatov drew were not only symbols of deep sadness, but probably had layers of hatred hidden beneath the surface. It is not hate targeted towards a specific person or subject, but rather, grief and loathing for everything related to the Chernobyl accident and events that followed. When this became clear to me, I had to acknowledge that somewhere deep inside of me was the same emotion. The unfathomable emotion which shook me as I looked at Shmatov's painting was, in fact, my own hatred that hid deep inside my heart.
The Museum in Bragin itself left lasting impression on me, not just because of Shmatov's painting. It houses an exhibition room to commemorate the firemen who lost their lives to fight the fire at Chernobyl plant. In that room, I reunited with an old acquaintance. His name is Vasily Ignatenko, a fireman from Bragin, who died at age 25. More precisely, it was his wife who I knew. May be nearly ten years ago, far before the nuclear plant accident in Fukushima, I happened to see a documentary film of this lady, the fireman's wife, on midnight TV. The program was produced by a foreign company (probably Russian), and it showed the fireman's wife about ten years after the tragic accident. As far as I remember, it did not paint her as a tragic victim in the way viewers like to sentimentalize, but it followed what actually happened to her in detail. Although it is quite some time since I saw the images, ever since the first news of the accident in Fukushima, the images from this film kept showing up on my mind, almost like a flashback.
The film went like this. Vasily, a fireman from Prypyat was called on duty without any protection, not knowing that the fire was from the nuclear power plant accident; he was exposed to extremely high dose of radiation, a level which could result in immediate death, and died on May 13, two weeks after the accident. At the time, his wife was pregnant. After the operation, Vasily was directly sent to Moscow for hospitalization with hardly any information on what had happened to him. Against orders, his wife visited him at the hospital every day to tend to her weakening husband. Amid rapidly deteriorating conditions, his only solace was thinking about the name of the baby to be born; however, she suffered miscarriage after his death. After the accident, in the confusion that followed the break-up of USSR, she could not receive sufficient compensation or rebuild her life; the film showed how she lived a life she did not intend. One scene remains particularly vivid in my recollection, where she replied to the director's question looking uncertain, and "I was very young at the time...too young to know what love is." Another scene which was most unforgettable was where she softly murmured, "What should I have done at the time?" while walking the street. Surely her feet were on ground, but it seemed as if she was floating. Shall I say she was like someone who lost her shadow? I have never seen someone who had given-up hope so completely that I became deeply disturbed. Her image haunted me, and I kept wondering for some time. What is it about her despair that is different from other people? Then I came to the conclusion that, she not only lost her husband but was deprived of everything; she was banished from her place of living, and uprooted from her life itself, including her memory with her husband. What she lost was everything that supported her life--husband, family, locus of life, belongings, even memories. In the event of a nuclear disaster, even memories are repainted in dark tones which hide their true colors; the old familiar landscapes are covered under the image of contaminated no-entry zone. The program showed a tragedy of someone whose whole life was uprooted and who was deprived of the dignity to live humanly in an unprecedented manner. This was my first encounter with an actual person who was living in the areas affected by Chernobyl accident.
When the accident occurred in Fukushima, the images of this film re-emerged vividly in my mind. I trembled at the fact that something similar to what happened to the fireman's wife may happen in Japan, where I lived, to people who are right beside me. I guess I was stricken with fear. It became one element which drove me and made me act since then.
Until I entered the exhibition room in the National History Museum of Bragin and listened to the young guide's explanation, I was not aware that Vasily was from Bragin. As she started telling the story of the fireman who fought the fire from Chernobyl accident and next about his wife, I recognized that Vasily and his wife actually were the couple in the film I had seen. I was unexpectedly stunned at this discovery. It felt as if something led me to this place. Or, I felt that I could never "escape" from their story, as if somehow their fate was intertwined with mine. Still shaken, I asked the guide if she knew what became of Vasily's wife. She looked so frail in the film that I feared she might not be alive. But the guide answered that Vasily's wife, Lyudmila, was well and living in Kiev. Then, she told me that Lyudmila had been invited to and attended the opening of the exhibition room. I felt sincerely relieved to hear that. Then I asked another question. "So, Vasily is respected by the people of Bragin, I presume?" The young guide looked at me straight, as if to wonder why I was asking something that goes without saying; then she gave a firm nod and replied without hesitation, "Da. (Of course.)" I saw origami cranes hanging from the ceiling of the exhibition room. (Paper cranes became popular in Belarus in the past few years, influenced by the broadcasting of a Japanese drama or some program.)
If there was no one by my side, I would have thrown down myself on the floor and cried out loud. Lyudmila's completely life, completely uprooted will never be returned, nor will she ever claim what was taken away from her. Even so, people of Bragin, through sharing the tragedy and passing it on to the future, were trying to make the tragedy part of their history. It was an indication of their resolve to assert that the tragedy of Vasily and his wife, as well as the tragedies of the people who were deprived of their lives, are not insignificant to other people. Furthermore, I felt that the people of Bragin were aiming to restore their dignity. With tears in my eyes--I may have been crying already--I was talking to Vasily's wife in my heart, "Yes, yes, my dear..." although I never knew her in person.
The guide who explained their tragedy appeared to be from a younger generation born after the accident. I sensed in her a strong sense of commitment, a determination not to let the tragic past be forgotten and laid to waste, but to tell the story into future as a history to be shared and passed onto future generations. In your earlier letter, you wrote about the difficult challenges to reclaim the memory of death into the domain of the living; I believe that what I encountered at the Museum is one attempt. The determined look in the guide's eyes convinced me that the people of Bragin will overcome this difficult challenge one day. Also, there is something I was only able to grasp by reading your last letter and contemplating on this experience in Bragin. The reason why I was so moved by the experience is, because the people of Bragin have been trying to reclaim the tragedy by incorporating it into their history and to create linkage with the future, a tragedy so entwined with losses that attempts to recover anything may seem futile; through these challenges, they are claiming places for these tragic stories in the domain of the living, as part of history, his and her stories, the story of people's lives.
That explains why, after visiting the place of the memories of a catastrophe so heavily laden with the shadow of death, what ultimately remained as the most impressive image in my memory is the determined look in the young guide's eyes. And I believe, we give it the name, "hope."
I have always wanted to tell you about my experience at the National History Museum of Bragin for a long time. So, I am relieved that I accomplished the task! The small Museum has remained a place most precious to my heart since the visit, as it must be to the people of Bragin.
Winter has visited Fukushima once again, with its gift of cold weather. Even in a freezing temperature, I see the colors of spring gradually spreading on the outermost tips of the branches each day. I am looking forward to seeing you again.
January 26, 2015On a day with crystal clear sky
Ryoko Ando
(英訳|by T.A. Thanks to K.N)
- 編集部註
- 〔*〕現存被ばく状況 [Existing exposure situation] ―― 「自然バックグラウンド放射線やICRP勧告の範囲外で実施されていた過去の行為の残留物などを含む、管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する状況」
("ICRP Publ. 103, The 2007 Recommendations of the International Commission on Radiological Protection"(2007年勧告)邦訳の用語解説、G4 http://www.icrp.org/docs/P103_Japanese.pdf )
「(n)委員会〔国際放射線防護委員会=ICRP〕は今、行為と介入の従来の分類に置き換わる3つのタイプの被ばく状況を認識している。これら3つの被ばく状況は、すべての範囲の被ばく状況を網羅するよう意図されている。3つの被ばく状況は以下のとおりである。
● 計画被ばく状況。これは線源の計画的な導入と操業に伴う状況である。(このタイプの被ばく状況には、これまで行為として分類されてきた状況が含まれる。)
● 緊急時被ばく状況。これは計画的状況における操業中、又は悪意ある行動により発生するかもしれない、至急の注意を要する予期せぬ状況である。
● 現存被ばく状況。これは自然バックグラウンド放射線に起因する被ばく状況のように、管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する被ばく状況である。
(o)改訂された勧告では3つの重要な放射線防護原則が維持されている。正当化と最適化の原則は3タイプすべての被ばく状況に適用されるが、一方、線量限度の適用の原則は、計画被ばく状況の結果として、確実に受けると予想される線量に対してのみ適用される。これらの原則は以下のように定義される:
● 正当化の原則:放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は、害よりも便益が大となるべきである。
● 防護の最適化の原則:被ばくの生じる可能性、被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは、すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら、合理的に達成できる限り低く保つべきである。
● 線量限度の適用の原則:患者の医療被ばく以外の、計画被ばく状況における規制された線源からのいかなる個人の総線量も、委員会が特定する適切な限度を超えるべきでない」(ICRP Publ. 103(2007年勧告)総括、邦訳p.xvii-xviii)
詳しくは、同文書(2007年勧告)の「6.3. 現存被ばく状況」(邦訳pp.70-72)参照。
また、『ICRP111から考えたこと――福島で「現存被曝状況」を生きる』には分かりやすい解説がある。とくに「第1回」の「現存被曝状況」:被曝と暮らす日常」参照。 http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html