渡し舟の上で
Sur la barque des passeurs
第5回
現存被曝状況*から、現存被曝状況へ
entre deux situations d'exposition existante
- To read the English translation, click here.
- 編集部から(第2回より)
- 親愛なる量子さん
-
最後の手紙を頂いてから2ヶ月になるでしょうか。福島の桜はもう散ってしまったでしょうね。先日、ナカイサヤカさん*1から「新しい春」と題されたメールが来ました。ナカイさんの近況報告を読みながら、1年前に彼女が福島を訪ねた際に送ってくれた桜の写真を思い出しました。私のいるパリは春の盛りで、自宅近くの庭や路上にリラや藤の花の香りが立ち込めています。
先の書簡で、あなたは、高井さん*2の撮った写真*3に「人間の尊厳」が写し出されている、そう思われませんか、と問うておいででした。高井さんが撮影した肖像写真には
末続 の人たちの自信がはっきりと見てとれましたし、肖像写真以外の日常風景の写真にも、末続の人たちの習慣、伝統、そして先祖代々の土地との結びつきがはっきりと表れていました。私にとって、人間の尊厳が、自尊心や自立や互いを尊重することだけの問題ではなく、文化との調和の問題でもあるということを理解するのに長い時間を要しました。尊厳について理解しようと思う時に、この面は最も理解するのが難しいと言えるでしょう。エートス・プロジェクト*4の初期の頃、私は大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)を読んで、チェルノブイリ事故後の状況にとって尊厳は最も重要な課題の一つであると気づきました。大江は同書の中で、原爆の傷を身体に負い、「他者のまなざしを避けるために家の奥深くに潜む」被爆者たちの屈辱と惨めさを描いています。他方、広島にはそれでもその地に住み続けることを選び、自分たちが経験した悲劇について語ることを諦めない人々がいる、そして、これらの人々は「超人的な」までの努力を払い、核兵器のない世界に対する希望を抱き続けている、と大江は指摘します。広島の人々の、どんなことをしても原爆について証言せずにはいられないという姿勢の中に、大江は広島の人々の尊厳を見出しました。
オルマニーの住人たちの状況は〔広島の〕被爆者たちのおかれた状況と似た側面を持っています。住民たちの間には、自分たちは価値が損なわれた土地に住む「二級市民」だと見られている、という認識が広まっています。また、住民たちは、そのような存在として、外の人たちから差別され続けています。さらに、思いのままに状況をコントロールできない状況に戸惑う政府や専門家たちは、無意識の内に住民たちを軽んじています。この結果、オルマニーの住人であるというだけで、得体のしれない
恥辱 の念がまとわりつくようになり、ほとんどの場合、引きこもり沈黙する道を選ばずにはいられませんでした。私たちのプロジェクトに参加し村の生活状況改善を模索した人々は、対照的なことですが、思い切って語ることを選びました。この人々の証言には、はっきりと尊厳が表れていました。福島でもこのような傾向が見出せることに同意して頂けると思います。〔ICRP〕ダイアログセミナー*5で自分たちの経験を証言した人たちからは深い尊厳が感じられました。それは、その人たちが聴衆を前に語るために払った努力にもまして、まず自分の中の怒り、苦痛、そして恥辱さえ乗り越えなければならなかったからです。特に、事故が起きて自宅を放棄しなければならなかった屈辱を語った女性が印象に残っています。この女性は、自分の想いを人々と共有するために、どれほど勇気を出して自分の深層を見つめなければならなかったでしょうか。しかも、発表者たちは〔証言するために勇気を要しただけでなく〕今後、差別と戦うという重い課題にも立ち向かわなければならないのです。原爆後の状況と原発事故後の状況において、尊厳が共通する課題であることは確かです。しかし、かつて被爆者が経験した状況と、放射能で汚染された土地の住人の状況を同じようなものと捉えることは適切ではないと思います。広島と長崎の状況は、原子爆弾投下により、人々のいのちを傷つける意図で放射線を使った行為によってもたらされました。他方、福島の状況は、原発事故後に生じた深刻な断裂によってもたらされました。それは、福島に生きる人々にとって、自分自身との関係、あるいは、他者や環境との関係が根こそぎ変えられてしまうという、
未曾有 の状況でした。ひとりひとりの身近に放射性物質が侵入し、この未知の恐ろしい存在によって、無力さと日常生活における統御感〔セルフ・コントロール〕の喪失 がもたらされました。それは個人の自立を破壊し未来に長い影を落とします。原発事故の被害者たちの尊厳は、この疎外の感覚、時には見捨てられたかのような気持ちだけではなく、「外の人たち」の眼差しや態度に避けがたく含まれる差別に晒 されたことで深く傷つけられました。こうした疎外感や差別が尊厳の毀損 をもたらしたことについて、〔福島の人々自らが〕語ることは滅多にありませんが。こうしたことを踏まえても、広島・長崎と福島の共通点と相違点についてはもっと深く考察されるべきだと思っています。
差別の問題については、福島で行ってきたダイアログセミナーのごく初期から表面化したので驚きました。そう、2012年7月に開かれた第3回ダイアログですでに表れていました。神奈川県から来た〔発表者の〕若い母親が、「将来自分の息子が福島出身の女の子と結婚したいと言ってきた時、自分はそれをどう受け止めるだろう」と自問した際、〔会場にいた〕
伊達市 の同じ年代の母親たちが非常に強く反発したのです。このやりとりが生み出した緊張と共に、仁志田 伊達市長が差別の問題を日本の歴史の文脈の中で捉えなおして解説した言葉をよく覚えています。それはダイアログセミナーを通して最も印象的な場面の一つです。尊厳と文化の関連について話を戻すと、エートス・プロジェクトの終わりに起きたある出来事と、それによって私が意識するようになった尊厳のもう一つの側面についてどうしても語りたくなります。
ストリン地区で1996年7月から2001年11月まで続いたエートス・プロジェクトを終了するに際し、私たちはベラルーシ政府とECの協力を得て2日間の国際的セミナーをストリン市で開催し、プロジェクトの成果と主要な教訓を発表しました。また、セミナーの後、エートス・プロジェクトに参加した村を少人数のグループで訪問する企画もたてました。海外からの参加者のほとんどは、ベラルーシ、とりわけ被害を受けた地域を訪問するのは初めてでした。このため、村の住人たちと直接会って、地元の状況についてより精確に理解してほしいというのが企画のねらいでした。私自身はウクライナとの国境にあるゴロドナヤという、プロジェクトの第2フェーズに参加した村を訪問するグループに加わりました。村の広場に到着した後は自由行動になったので、私は英国の研究者仲間ニールと通訳のニナを伴って3人の子供のいる家庭を訪問したのです。この家の子供たちは、私たちがコンタクトを開始した時点の検査では村の中で最も高い内部被曝をしていました。
晩秋のよく晴れた日曜のお昼過ぎのことでした。通りは
閑散 としていました。村から少し離れたところにある、ガリーナとイヴァン夫妻の家に着いた時に、この家族の主たる収入源であり夫婦が誇りにしていた野菜畑をニールに案内しました。過去の訪問時に、イヴァンが小さな地下貯蔵庫に並べられた冬期保存食用のガラス瓶――肉や野菜やジャムなど――を誇らしげに見せてくれたことがあります。また、私はニールに近くの森を指し示しました。〔1986年の〕事故後10年以上もの間、この家族は放射能汚染について知らないまま、キノコやベリーを摘 みにその森を訪れていたのです。台所にいたガリーナは、私たちの訪問に驚いていました。夫と子供たちはその日近くの村の親戚の所に遊びにいき、留守番をしていたのだと後で教えてくれました。彼女は日曜日に着る色鮮やかな晴れ着姿で、伝統的なスカーフを頭に巻き、はだしのままパンがオーブンで焼けるのを見守っていました。再会の挨拶のあと、私はニールに、夫妻がフランスの同僚たちの協力で事故後の汚染状況を次第にコントロールしていけるようになった過程を簡単に説明しました。食生活その他の改善で被曝を抑えるよう努力した結果、前回の村のWBC検査では、この家庭の3人の子供たちは学校で最も内部被曝の値が低いグループに入るまでになっていました。私はガリーナに、ニールはECでエートス・プロジェクトを最初から支援し続けた責任者だと説明しました。すると彼女は感極まった様子でニールをしばらく見詰めた後、感謝の言葉を述べ、オーブンからパンを木のへらで取り出し、新聞紙で包み、「神様の恵みがあなたにありますように」という祈りの言葉を添えながらニールに手渡したのです。
この特別な瞬間を私は決して忘れません。何もかも調和がとれていたからです。場の素朴さ。焼きたてのパンの香り。これ以上ないほどピカピカに掃除された台所に差し込む秋の光。ガリーナの晴れ着の鮮やかな色。絵画のような場面の中心に立つ、穏やかさと自信を取り戻した若い女性。初めてガリーナと会った時と比べずにはいられません。それは私が出席した会議が終わった後のことでした。村の広場でガリーナに呼び止められ、なぜ彼女の子供たちは学校のほかの子供たちのように村から離れた場所での保養プログラムに選ばれなかったのかと聞かれました。ガリーナは腕に女の子を抱いていました。彼女の表情には怒りだけでなく不安ものぞいていました。それからこの日までの道のりは、どれほど長かったでしょう。ベラルーシの典型的な台所の真ん中に立っているガリーナこそ、汚染された地域の住人たちが自らの尊厳を回復する歩みを体現しているのではないでしょうか。
この前の手紙であなたは、ブラギンの博物館を訪れ、被曝によって生命を落とした消防士の一人であるヴァシリー・イグナチェンコの記憶と向き合ったと書いてくれましたね。COREプログラム*6の間、私もその博物館の中の、彼の写真や事故当時に消防士たちが身に付けていた装備や制服を収めた部屋をよく訪れたものです。同様にブラギン市の中央にあるチェルノブイリ事故の記念碑の前でしばしば足を止めずにはいられませんでした。ベラルーシで失われた村の名前を彫った石碑がいくつも立ち並ぶその中心に、ヴァシリー・イグナチェンコの銅像が立っています。
そして、2012年9月に、私はまたヴァシリー・イグナチェンコと思いもかけない形で再会しました。それはモスクワにある第6病院、大量の放射線を被曝した人の治療に特化した病院を訪れた時のことです。ヴァシリー・イグナチェンコは事故後ここに入院していました。搬送後すぐに彼が検査を受けたWBCや彼が除染措置をうけた部屋を見ました。私の想いは、彼の思い出が最も鮮やかに息づいているブラギンへとさまよってしまい、案内をしてくれる人の説明になかなか集中することができませんでした。
終 いには感情が昂ぶってしまい、技術についてどのような説明を受けたか定かに覚えていないのです。最近、ICRPの主委員会のメンバーであるロシア人研究者からアンジェリカ・グスコヴァ教授が91歳で亡くなったことを知らされました。教授は放射線防護をリードする研究者で、第6病院でヴァシリー・イグナチェンコの治療にあたっていました。緊急被曝症候群のスペシャリストであるグスコヴァ教授とお目にかかる機会は2回しかありませんでしたが、卓越した科学者であるのみならず人間性の豊かな方でした。教授の逝去は、チェルノブイリ事故の悲劇の歴史の一幕が終わったかのように感じられました。
また手紙や直にお目にかかってブラギンの博物館について、とりわけCOREプログラムによってこの博物館がどのように改築されたかについてお話しするのを楽しみにしています。
次の手紙を楽しみにしつつJacques
2015年5月5日
- 親愛なる量子さん
-
放射線防護と倫理についてのセミナーが、6月初旬〔福島市で〕開催されましたが、その場で量子さんが発表した文書*7をまた読み直したところです。
量子さんの発表に改めて感謝します。放射線防護の専門家そして専門家のアドバイスを受ける政府関係者がこの発表を知れば、チェルノブイリや福島のように重大な放射線事故を
被 った地域、その状況に関わる重要な論点について、大いに示唆を受けることは間違いありません。専門家や政府関係者は、放射線の影響を被った住民を、その被曝の度合いに応じて〔適切に〕防護するべく、必要な措置を早急に講じなければなりません。そのためには、放射能の計測値または推計値をもとに、数値化された「基準」を設ける必要があります。しかし、問題は、これら「基準」が住民にとって、およそ何ものをも意味しない〔理解不能である〕ことです。これらの「基準」は被曝状況を改善するために導入されたわけですが、セミナーでの量子さんの指摘の通り、現実にはすぐに住民の生活の
足枷 となってしまうのです。「基準」はあなたが言うところの「線〔境界〕」に転じ、人々の日常生活を不自由にし、ひどい場合には生活を損なったり、がんじがらめに縛るものになってしまいます。生活を取り戻すためには、これらの「線」をどうやって乗り越えるかが課題になります。〔すなわち、関係者は〕住民たちと協力して、「放射線防護文化」──私たちは後にこう称するようになりました──を作り上げていくことによってのみ、汚染された地域にまっとうな生活を取り戻せるのです。このことは実証ずみです。私たちは、1990年代初頭のウクライナとベラルーシの経験から、チェルノブイリ事故〔1986年〕後に導入された放射線防護基準が悪影響を残したことを知り、エートス・プロジェクトの主眼を生活状況の改善におくようになりました。これは放射線防護、つまり被曝量を低減することだけが住人にとっての課題であるかのような一元的な見方とは異なる発想によるものです。
言うまでもなく、「放射線防護文化」を把握する難しさは、放射線が感覚でとらえられないことに起因します。放射線の存在は〔特殊な計器による〕計測によってしか明らかになりません。つまり、数値を介してしか、放射線の存在を察知できないのです。気温を測る場合には、温度計が示す数値と体感温度の関連を感じ取ることができます。ところが放射能に関しては、計測結果と感覚を結びつける手段がありません。私たちは他者を信用する必要がある、換言すれば、会話によって信頼を醸成するしかないのです。このため、他者の言葉への信頼が事故後の状況で最も重要なファクターの一つになります。
また、あなたは〔セミナーの〕発表の中で、日常生活を再び構築し直すために、測定と対話が鍵となる、そうすることで、その地域の住民各自が自らの志向や願いを手放さずに、暮らし・生活を営んでいく自由を手に入れることができる、と言っていましたね。この点、私も深く同意します。私の経験では、このプロセスは、〔個人のコミットメントだけでは不十分で〕コミュニティ(共同体)の関与が不可欠です。放射線防護文化を構築するためには、個々の住民のスキルや経験の蓄積が重要であることはもちろんですが、同時に、放射線防護文化は共通善(common good)なのです。この点、あなたが長く関わってきた
末続 地区での活動は、個人と集団の両方〔のはたらき〕をよく示す例だと思っています。復興プロセスに大きな地歩を占めるようになっていくのは、次第に組織化されていくこの集団の次元なのです。私がこの力学に気が付いたのは、オルマニーの農家の女性に、飼っている牛の乳〔の放射能〕を今でも測っているかどうか尋ねた時のことです。彼女はさほどおおごととは思っていないかのように、「いいえ。隣の家でとれた牛乳を測って、よい値が出ましたから」と答えたのです。彼女の言葉の含意を理解するための鍵は、彼女が飼っている乳牛は隣家の牛と同じ群れで放牧されているという点です。このエピソードから、いわゆる「専門家」は地元の習慣を理解していなければならない、ということがわかります。この地区の場合牛は村の中の居住地域単位でグループ分けされ、あるグループの牛はいつも同じ場所で放牧される慣習でした。
彼女は何年もの間、エートス・プロジェクトのワーキング・グループで最も熱心に活動してきた気骨ある農業畜産従事者です。この女性が語っていたことのポイントは、防護を
緩 めたわけではないけれど、今では他の村人が共同でモニタリングをしており、自分はその結果を信頼している、ということです。長年不安に苛 まれ、共同体の行く末にも悩みを抱えていたアンナ──そう、名前を思い出しました──はようやく自分と村の住人に対する自信を取り戻したのです。あなたは〔セミナーの〕発表の末尾で、「県外に移住した人にとって『線』を動かすことは難しい」と記しています。確かに、汚染地域から離れた場所で暮らすようになった人たちの考え方を動かすのは難しいことです。その人たちは、被害を受けた地域の住民と一緒に活動し、現状に即した対応を構築していくという個人的な経験をしていません。その結果、〔時間の経過や除染等による放射能汚染の軽減や生活状況の改善について理解することがないまま〕事故当時のままの考え方で固まってしまっているからです。たとえば、ベラルーシには事故後30年経った今でも、1980年代〜90年代に行政が汚染地帯と認定した地域を訪れることを拒否する人たちがいます。現在ではもはや危険は認められなくなったにもかかわらず、です。事故後生まれた若い世代の中には、これらの地域に足を踏み入れることを拒否する人もいます。そんなふうに先入観を抱かれてしまった土地はベラルーシ全土のほぼ25%にあたります。
発表の最後に、あなたが指摘したのは、事故後に政府が導入した放射線防護基準は、人々の生活や共同体のあり方に、実にしばしば、死活的なダメージを与えている、ということでした。これは原発事故だけではなく、日常生活の中での被曝状況すべてに通じることかもしれません。ここの点、私は、放射線防護というものが、科学が要請する責務と人間の尊厳の尊重をどのように両立させうるか、長い時間思い惑ってきたのです。事故後、あなたが経験してきたことは、この点からも極めて示唆に富む、と思っています。
初夏の暑いけれど好天の日に。Jacques
2015年6月29日
- Dear Ryoko,
-
Two months have already passed since receiving your last letter. I guess the cherry trees have completed their flowering period now in Fukushima. I received a few days ago a message from Mrs. Nakai entitled "A new spring" in which she informs me of her recent activities and I remembered the pictures of cherry trees she sent me last year last at about the same time when she visited the Prefecture. Here, spring is now well installed. Lilacs and wisterias in bloom embalm the air of the gardens and streets around my home.
In your letter you ask me about Jun’s pictures if I agree with you they illustrate human dignity. Not only his portraits show the self-esteem of the inhabitants of Suetsugi, but the scenes of everyday life also highlight the connection of these people with the habits and customs and the land that carries them. It took me a lot of time to understand that dignity is not only a question of self-esteem, autonomy and respect for each other, but also a matter of agreement with a culture. This dimension is certainly the one that is the most difficult to grasp.
It is by reading the 'Hiroshima Notes ' by Kenzaburo Oe, while the ETHOS project was developing, that I realized dignity was also at the centre of what was at stake in the Chernobyl post-accident situation. O? evokes in his book the humiliation and shame of the hibakushas physically marked by the bomb who 'hide themselves deep in their dark homes to escape the gaze of the other.' Then he points out the effort he described as ‘superhuman' on the part of those who still live in Hiroshima and have not given up to speak of the tragedy they experienced and the hopes they still have in a world without nuclear weapons. And it is in this insistence to testify that he says he discovered the dignity of the people of Hiroshima.
Relatively speaking, the situation of the inhabitants of Olmany had similarities with that of the hibakusha: the widespread consciousness of being regarded as 'second category' citizens condemned to live in a devalued territory, exposed continuously to discrimination of outsiders, and also facing an involuntary form of contempt in the way authorities and experts, confused by a situation they did not master, are treating them. Hence a vague feeling of shame of being Olmanien which most often resulted by a withdrawal into oneself and the silence. In contrast, the inhabitants who had join us to try to find ways of improving living conditions in the village and therefore dared to speak, attested an obvious dignity. I think you will agree with me that we can find these traits in Fukushima. People who come to testify in the Dialogue meetings also show a great dignity because beyond the effort to face the audience, they must also overcome their feelings of anger, bitterness and even shame. I refer in particular to the lady who spoke at a Dialogue about her shame of having abandoned her home at the time of the accident. I imagine how much courage she had to dig deep herself to share that feeling. Not to mention of course the discrimination that these witnesses must also overcome.
That said, if it is certain that the issue of dignity is common to the after-bomb and the post-accident situations, I do not think we can put on the same level the situation of the hibakushas and the one of the inhabitants of the contaminated territories. Hiroshima and Nagasaki were deliberate attacks of the living with the atomization and the wounding of the body. Fukushima is a profound rupture that creates an unprecedented situation and profoundly changes the relationship of man to himself, to others and to his environment. The irruption of radioactivity in the vicinity of each individual, this unknown and feared presence, generates a feeling of helplessness, loss of control on daily life, which severely amputates individual autonomy and cast a lasting shadow over the future. This sense of exclusion, sometimes close to abandonment, combined with the inevitable discrimination, which is anchored in the look and the attitude of 'those in the outer' are the breeding ground of the loss of dignity felt by so many victims of the accident but rarely expressed as such.
Beyond the above considerations, it seems to me that the examination of the similarities and differences between Hiroshima / Nagasaki and Fukushima certainly deserves to be deepened.
I was very surprised by the fact that the dimension of discrimination has emerged very early in the Dialogues in Fukushima. It was present already in the third meeting in July 2012. You certainly remember this young mother of Kanagawa wondering aloud if she would accept his son marry later with a girl of Fukushima and the indignant reaction of this other young mother from Date city. I still remember perfectly the tension raised by their exchange and the intervention of Mayor Nishida to replace the issue in the context of the history of Japan. It was one of the very highlights of this Dialogue meeting.
Going back to the question of the link between dignity and culture that I mentioned above, I cannot resist to tell you an episode that happened at the end of the Ethos Project and that made me aware of this other aspect of dignity.
To close the ETHOS Project, which took place from July 1996 to November 2001 in the Stolyn District, we organized with the assistance of the Belarusian authorities and the European Commission an International Seminar of two days in the city of Stolyn to present the project results and to draw key lessons. The day after the seminar we also organized visits by small groups in different villages that participated in the project so that foreign colleagues, most of whom were discovering Belarus and the contaminated territories, meet villagers and have a more precise idea of the local situation. I decided to join the group visiting the village of Gorodnaya located on the border of Ukraine, who had participated in the second phase of the Project. When we arrived at the village square we dispersed and, accompanied by Neale an English colleague and Nina my interpreter, I went directly to visit a family with three children who were the most contaminated in the village when we initiated our approach.
It was a sunny Sunday in late autumn at midday. The streets were deserted. When we arrived at the house of Galina and Yvan located a little away from the village, I showed Neale the vegetable garden in which the family drew most of its livelihood and which was the pride of the couple. During a visit Yvan had proudly presented me the glass jars of vegetables and meat and also the pots of jam aligned for the winter in a small cellar dug under a part of the house. I also indicated Neale the nearby forest where the family had continued for more than a decade after the accident to pick berries and mushrooms in ignorance about the contamination.
We surprised Galina alone in her kitchen: her husband and children were gone for the day to visit family members in a nearby village she clarified a bit later. In her colourful Sunday best, the traditional scarf on her head, bare feet, she watched a batch of bread that was finishing to cook in the oven. After the usual greetings, I recounted briefly for Neale, how Galina and her husband Yvan had gradually regained control of the radiation situation with the help of the French colleagues. As a result, during the last WBC campaign the 3 family children were among the least contaminated kids of the school. I also told Galina that Neale was the person in charge at the European Commission, who had followed and supported the ETHOS Project since its origin. Visibly moved Galina stared at length Neale before thanking him warmly and then she pulled out a loaf of bread from the oven with a wooden shovel, wrapped it in a newspaper and presented it as an offering to Neale, saying: "God bless you”.
I will never forget this special moment. All seemed to agree: the simplicity of the place, the smell of hot bread, the sun bathing the impeccably tidy kitchen with an autumn light, the shimmering colours of the clothes worn by Galina. And at the centre of this painting there was the sweet face filled with emotion and recognition of this young lady now appeased and confident. I remembered then when I first met Galina. She stopped me on the village square at the exit of a meeting to ask why her children were not selected to go to the sanatorium with the other children of the school. She had a daughter by the hand. Her face betrayed anger but also anxiety. What a long way since then. Galina, standing in the middle of this so Belarusian kitchen, wasn't she personifying the regained dignity of some of the residents of the contaminated territories?
You also evoke in your letter your visit to the Bragin Museum and your confrontation with the memory of Vassily Ignatenko, one of the firefighters victim of radiation. During the CORE program, I often visited the room of the museum that brings together some photos of him as well as remains of equipment worn by firefighters at the time of the accident. Likewise I repeatedly stopped before the memorial of the disaster in the centre of Bragin where Vasily Ignatenko bust is erected in the middle of a series of steles bearing the names of the missing villages of the District.
Then I was again confronted unexpectedly to Vasily Ignatenko in September 2012 during a visit of the Hospital No. 6 in Moscow specialized in the treatment of highly irradiated persons where he had been hospitalized after the accident. I saw the WBC box in which he was measured on arrival at the hospital and the room in which he had been decontaminated. I had trouble concentrating on the explanations because my thoughts always brought me back to Bragin, where the memory of Vasily Ignatenko is the most alive. Finally emotion took over and I do not remember much about the technical aspects of that visit!
Recently I learned from my Russian colleague of the Main Commission of the ICRP that Professor Angelina Guskova, a leading figure of radiation protection, had just died at the age of 91. It was she who had treated Vasily Ignatenko at Hospital No. 6 and tried in vain to save him. This specialist of acute radiation syndrome that I had the opportunity to meet only twice during my career, not only was an outstanding scientist but also a person of great humanity. With her passing a new page of the Chernobyl tragedy is turned.
I hope we will have the opportunity to discuss again in future letters or face to face about the Bragin Museum and particularly the way it was renovated thanks to the CORE Program.
Looking forward to reading your next letter.
Kind regards.
Jacques
May 5, 2015
- Dear Ryoko,
-
I just read again several times the text of the presentation you gave at the Seminar on the ethics of radiological protection at the beginning of this month.
I thank you again for writing it because it provides an important testimony concerning one of the major difficulties radiation protection experts, and obviously the authorities following their advice, are facing to manage the situation resulting from severe nuclear accidents such as Chernobyl or Fukushima. They need to quickly take steps to protect in the best way those affected taking into account the levels of radioactivity to which they are exposed. To do this they rely on estimates or measurements to establish standards expressed as figures which in the first instance mean absolutely nothing to people.
Then, as you well describe these standards, that are supposed to improve the situation, quickly become a blocking factor. They turn into "lines", as you call them, which deplete everyday life, and even mutilate and paralyze it. The whole issue of rehabilitation then becomes how to overcome these lines
Experience shows that it is only by developing step by step with the people what we have called afterwards the "practical radiological protection culture" that it is possible to restore decent living conditions. This is the observation, made in the early nineties in Ukraine and Belarus, of the deleterious effects of radiological protection standards that lead us in the Ethos Project to focus on the rehabilitation of living conditions, protection against radiation being considered as only one dimension of the problem.
Obviously, the difficulty to access to this culture is that there is no perceptible reality of radioactivity. Its presence can only be revealed by means of measurements, that is to say, via figures. When we measure the ambient temperature we can establish a link between the figure we read and what we feel physically. With the radioactivity there is no possible link with a feeling. We have to rely on others, in other words through speaking. This is where the issue of trust in the word of the others is one of the essential dimensions of the post-accident situation.
You rightly mentioned in your text the key role of measurement and discussion to initiate the process of re-appropriation of everyday life and thus to allow everyone to find a space of freedom in which he or she can again go about his or her business and act according to his or her inclinations and aspirations. Experience shows that this process necessarily involves the community. Beyond the acquisition of an individual capacity and expertise, the practical radiological protection culture is also a common good. In this respect the dynamic that deployed in Suetsugi very well exemplifies this dual individual and collective dimension.
It is this collective dimension that gradually organizes itself, which endup taking over in the rehabilitation process. This is something that I understood when a farmer of Olmany whom I asked if she had recently measured the milk of her cow replied to me with detachment "No, because my neighbour measured the milk of her cow and it is of good quality". To understand her answer obviously one had to know that her cow was in the same herd as the cow of her neighbour. Hence in passing, this anecdote demonstrates the importance for the "experts" to know local customs, namely in this case that the cows were grouped by village area in herds that were grazing always in the same pasture.
In her response, the brave farmer, who had also been involved for several years like no other in the working groups of the Project Ethos, meant that she had not lowered the guard but she was now relying on the shared vigilance by the villagers. After long years of personal anxiety and disintegration of the village community, Anna, this was the name of this farmer, had finally found again confidence in herself and in others.
At the end of your text you mention the difficulty of moving "lines" for those who reside outside of the Prefecture. Indeed in the absence of personal involvement in the appropriation of the radiological situation alongside those who reside in the affected territories, it is very difficult to change the mental patterns, which froze at the time of the accident. I know people in Belarus who still refuse, almost 30 years after the accident, to visit the territories that were considered administratively contaminated in the eighties and nineties, and no longer present any danger. Some young people born after the accident have never even set foot in these territories which represent almost 25% of the surface of their country.
Finally, you point out how authorities do not really realize the often disastrous consequences on people's lives and on the quality of the living together that the introduction of radiological protection standards may induce. This is not only true following a nuclear accident, but also for other exposure situations to radiation encountered in everyday life. I wonder for a long time on what could be a radiological protection that reconciles the imperatives of science and the respect for human dignity. I feel that your experience since the disaster is from this point of view the most valuable.
On a beautiful, hot day of the beginning of summer.
Sincerely Yours.
Jacques
June 29, 2015
(英訳|by T.A. Thanks to K.N)
- 編集部註
- 〔*〕現存被ばく状況 [Existing exposure situation] ―― 「自然バックグラウンド放射線やICRP勧告の範囲外で実施されていた過去の行為の残留物などを含む、管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する状況」
("ICRP Publ. 103, The 2007 Recommendations of the International Commission on Radiological Protection"(2007年勧告)邦訳の用語解説、G4 http://www.icrp.org/docs/P103_Japanese.pdf )
「(n)委員会〔国際放射線防護委員会=ICRP〕は今、行為と介入の従来の分類に置き換わる3つのタイプの被ばく状況を認識している。これら3つの被ばく状況は、すべての範囲の被ばく状況を網羅するよう意図されている。3つの被ばく状況は以下のとおりである。
● 計画被ばく状況。これは線源の計画的な導入と操業に伴う状況である。(このタイプの被ばく状況には、これまで行為として分類されてきた状況が含まれる。)
● 緊急時被ばく状況。これは計画的状況における操業中、又は悪意ある行動により発生するかもしれない、至急の注意を要する予期せぬ状況である。
● 現存被ばく状況。これは自然バックグラウンド放射線に起因する被ばく状況のように、管理に関する決定をしなければならない時点で既に存在する被ばく状況である。
(o)改訂された勧告では3つの重要な放射線防護原則が維持されている。正当化と最適化の原則は3タイプすべての被ばく状況に適用されるが、一方、線量限度の適用の原則は、計画被ばく状況の結果として、確実に受けると予想される線量に対してのみ適用される。これらの原則は以下のように定義される:
● 正当化の原則:放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は、害よりも便益が大となるべきである。
● 防護の最適化の原則:被ばくの生じる可能性、被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは、すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら、合理的に達成できる限り低く保つべきである。
● 線量限度の適用の原則:患者の医療被ばく以外の、計画被ばく状況における規制された線源からのいかなる個人の総線量も、委員会が特定する適切な限度を超えるべきでない」(ICRP Publ. 103(2007年勧告)総括、邦訳p.xvii-xviii)
詳しくは、同文書(2007年勧告)の「6.3. 現存被ばく状況」(邦訳pp.70-72)参照。
また、『ICRP111から考えたこと――福島で「現存被曝状況」を生きる』には分かりやすい解説がある。とくに「第1回」の「現存被曝状況」:被曝と暮らす日常」参照。 http://www59.atwiki.jp/birdtaka/pages/23.html
http://fkouenbk.web.fc2.com/index.html
http://www.minpo.jp/pub/topics/odekake/2014/05/post_4230.html
http://www.ohtabooks.com/homo-viator/barque/11811/
http://icrp-tsushin.jp/dialogue.html
〔*6〕COREプログラム:国連機関等の支援によりベラルーシで実施された、汚染地域での生活条件改善プロジェクト。
〔*7〕ICRP第二回放射線防護の倫理に関するワークショップ:
プレゼンテーション(発表)の概要は以下にある。
――Workshops on the Ethics of the System of Radiological Protection
Supporting Task Group 94
2nd Asian Workshop
Jointly organised by Fukushima Medical University Fukushima and ICRP
Fukushima, Japan, June 2015
http://www.icrp.org/page.asp?id=237