第14回 第4章:日本と中国のあいだ ――「近代性」をめぐる考察(3)―― 2. 文革と近代性(モダニティ)の問題

梶谷 懐

 さて、前々回の連載を、以下のような言葉で締めくくった。

 ただし、これは柄谷一人の責任に帰せられる問題ではないのかも知れない。僕自身、このような左派系知識人の中国認識の「混乱」についてより深く捉えるためには、戦後日本の知識人が他者としての「中国」をどのように体験したか、なかんずく「文革」をどのように体験し、それに向き合ってきたか、という点を掘り下げていく必要があるように感じている。

 これはやや唐突な印象を与えたかも知れない。このテーマを持ち出したのは、一つには近年研究者の間で「文革」を前近代(プレモダン)の遺物と捉えるか、それとも近代性(モダニティ)の産物と捉えるかということで生じていた論争が念頭にあったからだ*1。ここでこの論争に立ち入ることは差し控えるが、そこで問われていることを起点にして日中のモダニティ、あるいは「近代化」をめぐる議論の盲点のようなものが明らかにできるのではないか、と考えたのである。

*1 例えば代田(2011)に収録の諸論考、石井知章(2011)「太平楽論の体たらく―代田智明氏に反論する―」『中国研究月報』第65巻第7号、代田智明(2012)「蛸壺のなかのまどろみ」『中国研究月報』第66巻第5号などを参照。

 さて、そもそも「文革」とはなんであったか。政治闘争としての文革を説明するなら、おおむね次のようにまとめられるであろう。すなわち、それは「大躍進政策*2の失政によって政権中枢から外れていた毛沢東らが、中国共産党指導部内の「実権派」による修正主義の伸長に対して、自身の復権を画策して引き起こした大規模な権力闘争(内部クーデター)」である、というふうに。

*2 毛沢東の主導の下1958年から60年にかけて行われた、大規模な大衆動員によって穀物・鉄鋼の増産→水利施設の建設などを目指そうとする社会運動。「15年間でイギリスに追いつき、追い越そう」というスローガンを掲げた鉄鋼などの生産は実際には技術水準も効率性も低く、当初目指したような経済成長をもたらさなかった。また穀物生産に関しては水増し報告のために実態が把握されなかったこともあって、多数の餓死者を生んだ全国的な飢饉の発生につながった。

だが、政治運動として「文革」をみるとき、それは何よりも、統治に不満を抱いた都市民が暴力を伴う大衆運動に動員され、その「多数の力」で政治を動かした現象として捉えなければならないだろう。その後の研究により、文革が生じた背景には、階級対立を根絶したはずの毛沢東時代の中国にはびこる様々な格差や矛盾の存在があり、それに対する民衆の不満が、暴力的な形で噴出したものであることが明らかになってきたからである。

 例えば、文革の「政治言語」の特徴に注目してその分析を行った吉越弘泰は、それまでの共産党の統治下で地主や富農、反革命分子の子弟など、「出身が悪い(出身不好)」として低い地位に置かれ、鬱屈うっくつした思いを抱いていた人々が、文革の政治運動の中で一種の解放感を覚えたことに触れ、「毛沢東や中央文革などの文章やアジテーションが「出身不好」の造反派紅衛兵をはじめ当時の共産党統治に抑圧感を感じていた者たちにとって圧倒的な解放の言語経験であった」と述べている(吉越、2005)。

 また、金野純は、このようなさまざまな社会矛盾を押し隠すものとしての「大衆動員」に注目しつつ、毛沢東時代の中国における社会変動を説明しようとしている(金野、2008)。金野によれば、中華人民共和国の建国後、初期の大衆動員は、「企業丸抱え社会」を通じた都市住民への利益誘導と、イデオロギー教育を通じて、共産党政権を磐石にすることを目標にして行われてきた。

 しかし、大躍進政策の失敗後、中国共産党は、次第に各職場において外部から派遣されたメンバーによる「工作隊」を組織し、それを既存の組織系統の上におく、というやり方積極的に用いるようになった。これは、大躍進政策の失敗がもたらした共産党による統治の正当性の危機にあたって、革命初期の農村解放区における大衆動員の方法に近いやり方が、都市に対しても適用されるようになったことを意味する。そして、文化大革命こそ、そのような「農村タイプの大衆動員」が全面的に展開された事例にほかならなかった。

 このことは、文革期に先立つ中国社会の大きな変化として「都市の農村化」ともいうべき現象が進行していたことを示唆するものである。そもそも都市住民は、社会の近代化の過程において、国家に対して一定の発言力を持つ中間層の核を形成していくはずである。しかし、「都市の農村化」が進むということは、都市住民の中でも「農民」あるいは「生民(生存を天に依拠する民。連載第2回参照)」的なメンタリティ、すなわち、基本的に権力のあり方に無関心な人々が優勢になることを意味する。言い換えれば、「天命」を体現したと考えられる、絶対的な正義=毛沢東の権威を借りることで、目の前の抑圧装置=官僚機構を破壊してしまおう、それこそが正義にかなうのだ、という衝動が都市を含めた社会全体を覆うことになる。その経験を通じて「出身の悪い」者を中心とした共産党の統治に抑圧を感じていた都市住民は、つかの間の「解放感」を味わい、その解放感こそがその後の暴力の連鎖を生みだした、と言えるかもしれない。

 この連載の第2回でも述べたように、中国社会は統治において「道義的な正統性」が大きく重視される社会である。すなわち、ある政治的な行動に対して判断が下される際に、一種の道義的な理念、すなわち「正義」があるかどうか、それが「道理」にかなっているのか、という基準が参照されがちである。

 中国社会では、伝統的に民衆が政治に不満を持って非常に苦しい状態で立ち上がることを「正義」としてとらえる傾向が存在する。問題は、その際に暴力を振るうことも含めて「正義」だととらえられるのかどうか、ということである。すなわち、「目的や理念が正しいならば罰せられるべきではない」と考えるのか、「目的が正しくても、法に触れれば罰せられるべきだ」と考えるのか。前者の考え方は言うまでもなく近代的な「法による支配」の概念とは相容れない。程度の差こそあれ、このような考えを肯定するのかどうかが、近代的な人権思想に依拠する右派と、人権に対する国家の優位を主張する左派との対立にもつながってくる。

 重要なのは、単一権力社会のもとでは、抑圧的な統治に対して立ち上がったはずの民衆の暴力は、往々にしてそのときの権力によって政治的に利用され、結果的に統治を強化する働きを持ってしまう、という点である。当時の共産党による統治に何らかの形で不満を抱く都市の民衆の暴力が、毛沢東により「正義」と認定され、共産党内における敵対勢力一掃に利用された文化大革命は、その典型的な事例であろう。

 また現代においても、中国社会における大衆行動と暴力が切り離せないことは2012年の尖閣諸島の領有権をめぐる日中間の摩擦の中で生じた民衆の暴動で明らかになったといえよう。中国社会において暴力を伴わない民衆の直接行動は可能か、という問題は、「文革なるもの」を乗り越え市民社会をつくることができるか、という問題とほぼ重なり合っているのだ。

 中国社会において「文革なるもの」をいかに乗り越えるか、という論点が、今もなお現代中国の知識人にとってアクチュアルな論点の一つになっていることには、このような背景がある。たとえば、中国を代表するリベラル派の知識人である徐友漁じょゆうりょうは、その名も、『文化大革命の遺制と闘う』と題した書物の中で、大衆動員的な政治手法によって左派的な「重慶モデル」を推し進めようとした薄熙来はくきらいを文革期の専制的な政治を復活させようと目論んでいるとして厳しく批判している(徐ほか、2013)。徐のようなリベラルな右派にすれば、文革はそれこそ前近代的なものの象徴でありであり、中国が近代的な市民社会を目指す上で必ず乗り越えなければならない「遺制」なのである。

 一方、1960年代後半の日本においても少なくない研究者・知識人が文化大革命を支持し、文革批判派との間に深刻な政治的な対立が生じたことはよく知られている。その背景には、もちろん情報の不足による状況把握の困難さもあるだろう。しかし、事情はもう少し複雑である。たとえば、日本において文革を評価した研究者や文化人の多くが、文革という大衆動員による社会変革を目指す運動のありかたに、公害・薬害・教育の荒廃など、後期近代特有の様々な問題を抱えた日本社会における閉塞観とその乗り越えの可能性を積極的に見出していったことが指摘されている。すなわち、加々美かがみ光行の言葉を借りれば、「あくまで文革の理念をもって逆に日本社会の病弊を批判することを通じて、日本の変革をめざし、また、それを通じて中国に対する日本の関わりのありようの変革をめざす」という目的意識が働いていたのである(加々美、2007)。

 今日的な視点から見れば、すでに高度経済成長を経験し、後期近代へと移行しつつあった日本に、前近代的な色彩に彩られた文革を支持する知識人層がかなりの程度存在したことは、驚くべき事に思えるかも知れない。だが、それは所詮後知恵というものであり、次のように考えればそれは少しも不思議な現象ではないだろう。例えば、毛沢東思想を「前近代的」の文脈で語ることは当時は全く一般的ではなく、むしろ対米自立(米帝打倒)の先達に見えたはずだ。また、「既成の官僚機構」を容赦なく破壊し尽くす文革のパワー=暴力も、大規模な学生運動によっても社会変革の具体的な道筋は見えず、焦燥感と閉塞感が交錯する後期近代の日本、という文脈においてこそ、むしろ輝きを持って受け止められたという側面があるのではないだろうか。

 その姿勢は、戦前に講座派マルクス主義から大アジア主義に転向していった知識人たちの思考と、ちょうど裏表のような関係にある。単純化してしまえば、アジア主義に転向したマルクス主義者は、日本の前近代性を変革することをいったん諦めて、「より遅れた」中国大陸への介入に活路を見出そうとした。それに対して、文革を肯定した学者・ジャーナリスト・活動家、なかんずく中国との関わりが深かった人々は、むしろ激しく変化する中国の現実を「より進んだ」ものとして肯定し、そこに日本社会の変革の方向性を見出そうとしたのだといえる。

 しかし、文革の経験は、それが実行に移された時には、つまり「言語化」されたときには、前回の連載でふれた柄谷による四象限の概念図を援用すれば、きわめて暴力的で専制的な「第Ⅱ象限」の現象として現れるしかなかった。戦前日本のアジア主義が観念的なレベルでは「第Ⅲ象限」に位置しながら、それが実行に移されるときには帝国主義的な侵略としてあらわれざるを得なかったのと同じように、である。

 また、日本国内においてこのような「中国社会の近代性」が議論される際には、また別の問題が頭をもたげることになる。すでに述べたように、もともと日本社会と西洋的な近代社会との異質性にこだわる講座派的な視点が、「アジア」という西洋以外の他者に対して用いられるとき、容易に帝国主義的な侵略の思想に転化してしまうという問題があるからである。言い換えれば、日本と中国の現実に対峙するものにとって、日本社会を果たして「前近代的なもの」を乗り越えた、真に近代的な社会と規定してよいのか、という問題が常に突きつけられてきた、と言ってよい。いずれにせよ、そこで問われているのは、日本社会と「アジア的なもの」の関わりをどう考えるのか、という古くて新しい問題である。

参考文献は最終回(第15回)に掲載しています。

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