第5回 患者の死

冨田香保里/高野利実(虎の門病院 臨床腫瘍科部長)/中嶋一
編集部から
冨田香保里さんの問いかけに、高野利実医師が答える「Q&A」スタイルで連載しています。冨田さんは2015年3月23日にお亡くなりになっていますが、生前、高野医師への質問(Q)は全部書き終えておられました。文末「妻 冨田香保里のこと」では、冨田さんのご主人・中嶋一さんに文章を寄せていただいています。冨田さんの人となり、仕事、病との対し方、さまざまな葛藤など、患者と医師の「Q&A」に収まりきらない部分を執筆いただきました。

<連載目次>
第1回 はじめに(冨田香保里+高野利実)
第2回 医師と患者のコミュニケーション
第3回 医師は神様ですか?
第4回 医師は神様ですか?(その2)
第5回 患者の死
メモランダム:妻 冨田香保里のこと(中嶋一)
(以下次号)
病院というもの
治療について
番外編 おわりに(高野利実)

Q.3 患者の死

 医師にとって患者の死の意味するところは? 得るものはなんでしょう?

A.3 高野医師の回答

 患者さんをお看取りするとき、担当医からみた「死」にはいろんな側面があります。前にも書いたように、医師は「神」ではありませんので、一人の人間として、壮大な人生の終焉〔しゅうえん〕に立ち会う際には、重く複雑な感情が渦〔うず〕巻きます。
 お看取りする機会は他の科の医師よりも多いので、「慣れ」がないわけではありませんが、死の意味の重さが軽くなることはなく、旅立ちの時を迎える一人ひとりの患者さん、あるいは、死にゆく過程の貴重な時間と空間を共有しているご家族やご友人とともに、その意味を受け止めています。

 ただ、どんな感情が起きようとも、医師としての仕事を全〔まっと〕うしなければなりません。医師には、冷静な立場で、死亡したことを診断し、法律上の「死亡時刻」を宣告し、死亡診断書を作成するという業務があります。
 そういう業務上の視点からみた患者さんの死は、「3人称の死」と言われます。ニュースキャスターが淡々と伝えるような、あるいは、交番で「昨日の交通事故 死者〇人」と掲示されるような、客観的な「死」です。
 でも、大事な患者さんが亡くなり、永遠のお別れとなるわけですので、担当医として悲しくないわけがありません。最愛の家族を亡くすときの「2人称の死」まではいかないとしても、「2.5人称の死」くらいにはなるでしょう。担当医として、「2人称の死」と「3人称の死」の間で、こみ上げる涙をおさえながら、できるだけ冷静に、死亡確認を行っているわけです。
 仕事柄、「死」について考える機会は多く、いつか迎えるであろう自分の死、すなわち、「1人称の死」について想いを巡らせることもよくあります。大事な患者さんを看取ったあとの夜、患者さんの死に、自分の死を重ね合わせて、あれやこれや考えこんだりもします。でも、それを考える私は、今は生きているのであって、「1人称の死」は、その日を迎えるまでは、けっして、想像以上のものとはなりえません。結局は、「死」については、ほとんど何もわかっていないということです。

 「1人称の死」は得体の知れない恐ろしいものであり、想いを巡らせるだけでも、何かに押しつぶされそうな、あるいは、底の見えない暗闇に吸い込まれるような、言いようのない不安な気持ちになります。そして、「2人称の死」は、現実的な断絶、喪失として、重く深い悲しみをもたらします。
 死から超越した神であれば、このような感情に苛〔さいな〕まれることもなく、すべての死を「3人称の死」として冷静に扱うことができるのかもしれませんが、人間である医師には難しいことです。でも、この意味と向き合い、考え続けることこそが、医師の大事な仕事なのではないかと思っています。

 私が医学生だった頃、現実としての死に触れたことはほとんどないというのに、自分がこれから向き合うであろう「死」について知ろうと、いろんな書物を読み漁〔あさ〕った時期がありました。その頃に書いた文章〔*〕を読むと、若かったあの頃の想いが今の自分にも伝わってきます。あの頃から今に至るまで、そして、これから私が死を迎えるまで、答えのない「死」についての問いについて考え続けるのが、私のライフワークだと思っています。

〔*〕高野利実「21世紀の「医」を考える」第3回「『医』と『死』」(『鉄門だより』5521、1997年3月号)
http://toshimitakano.c.ooco.jp/2-7/11.html

 医学生の頃に、私は、こんなことを考えていました。
 誰にとっても避けられない、いつかは迎える、運命づけられた「死」。そんなものを内在させながら誕生する「生」とはなんなのだろう。「生」には、「死」を超越するだけの意味があるのだろうか。「死」をも超えて残される「生」の意味があるとしたら、それは何だろう。
 この問いに対して、当時の私が見つけた答えは2つでした。1つは「遺伝子」で、もう一つは「脳の共有」です。人間は、死を乗り越えようという欲求を、「遺伝子」を残し、守るという欲求と、「脳の共有」という欲求に置き換えて、日々の生を送っているのではないかと。
 「遺伝子」は、先祖から引き継がれ、子孫に引き継いでいくもので、自分の生を形作り、彩〔いろど〕ったDNAは、自分の死後も子孫の中で生き続けます。子供を作ろうとする欲求、生まれた子供を守り抜こうとする欲求は、死を乗り越える欲求とつながっているのかもしれません。
 「脳の共有」というのは、私の恩師でもある養老孟司先生がよく使っていた言葉です。身体を共有することはできず、死後に残すことはできませんが、脳の中身は形を変えて残すことができます。人間が他人と接し、会話を交わし、文章を書いたり、様々な文化的・社会的な活動をしたりするのは、「脳の共有」をしているということに他ならず、そうやって、人とつながったり、文章や芸術などで表現しようとする欲求もまた、死を乗り越える欲求とつながっているのかもしれません。
 さらに、「遺伝子」と「脳の共有」の欲求を包含するものとして、「愛」がある、というのが、当時の私の持論でした。遺伝子を残す欲求も、人とつながる欲求も、「愛」の表れであり、「愛」こそが「死」を乗り越える究極のものであると。
 私自身の結婚式は「人前式」でしたが、キリスト教式で使われる「死が二人を分かつまで」というフレーズを、「死が二人を分かつとも」と書き換えた「誓いの言葉」を二人で述べました。死が二人を分けたあとでも永遠に続く「愛」の存在を高らかに宣言したわけです。この「愛」が今どうなっているかは置いておくとして、実際に、「愛」は死を乗り越えうるものだと、今も思っています。

 この文章を私が書いている今、冨田さんは、この世にはいません。冨田さんは、人生の幕を閉じようとする病床で、最期のときまで、本書のことを気にしていて、死後であっても、この本が世に出ることを望んでいたそうです。その想いは、私の脳にも共有され、こうして、私の脳の中身とも混ざり合って、本書が形成され、さらには、これを読んでくださっている読者の脳にも共有されているわけです。冨田さんの死という現実に対して今の私には何もすることができませんが、冨田さんの「脳の共有」をお手伝いすることで、冨田さんの「生」の意味を高めることに少しは貢献できているのかもしれません。
 冨田さんと中嶋さんご夫妻の「愛」もまた、冨田さんの死後も、確実に生き続けています。それは、冨田さんと中嶋さんの文章に、ありありと感じられ、多くの読者の脳にも共有されているわけです。

 人間は、死を避けることはできませんが、死を乗り越えることはできるのかもしれません。そして、死を乗り越えるのに必要なのは、「医学」でも「神」でもなく、「愛」であり、それは、人間にもともと備わっている究極の力なのだと思います。

 「死」と向き合っている患者さんにとっては、こんな観念的な話は現実離れしていると感じられるかもしれません。こんな話をここで書くのが適切なのかもわかりませんし、「これが死を乗り越えるための答えだ」と言って押し付けるつもりもありません。
 でも、医学でも避けることができない「死」と向き合うとき、それを乗り越える可能性、あるいは、人間に備わった「愛」の力について想いを巡らせることは、死にゆく人にとっても、それを看取る人々にとっても、救いになるのかもしれません。

 わからないことだらけですが、「死」の意味については、私なりにこれからも考え続けたいと思っています。
 それが、今回の質問に対する答えですが、天国の冨田さんの本音もぜひお聞きしたいところです。


メモランダム:妻 冨田香保里のこと 第4回
中嶋一

 がんというこの病気から生還した方のコメントが雑誌等に紹介されることがあります。それを読んだ患者さんは思います、その方はどんな治療をしたのだろうか、なぜ自分に奇跡が起きないのだろうかと。
 前世で悪いことをしたのか、治療方法が間違っているのか、病院を変えたほうがよいのか、風水が悪いのか、親が悪いのか、自分が悪いのか。患者さんも、ご家族も頭の中は収拾がつかず、疲れきってしまいます。
 たぶん、主治医に訊いても怒られるか、笑われるか、軽くあしらわれるか、正面から受け止めてはもらえないはずです。

 香保里さんのコメントが、ある民間療法の手作り機関誌に掲載されたことがありました。その記事では、目黒区のN・Kがその療法のおかげで症状がおさまり、完治したことになっていました。
 私から見れば、むしろ悪化しているようにしか見えないのに、香保里さんが商品注文の際に電話で話した、その治療にたいする期待や思い、お世話になっているという感謝の言葉が「改善した」と誤解あるいは勝手に意訳され、コメントとして掲載されたのです。
 香保里さんには、そのコメントどおりに完治したい、よくなりたいという気持ちが強くありましたから、当時、あの記事を未来予知(こうなってほしいという願望)のような気分で読んでいたのではないでしょうか。
 東北の田舎町で、世のため人のためと思い、こつこつとお年寄りが小さな商売をされていると思うと、民間療法の機関誌に苦情を言う気にはなりませんでした。
 しかし、この香保里さんのコメントを読んで、民間療法を試そうとする方々がいるのではないかと思うと、胸が痛みました。

 私は、このような商売を、無邪気な善意のビジネスだと思います。
 この病気の方々やご家族は、よい情報がほしいのです。自分の治療が成功した他の事例を聞いて安心したいのです。それが一番うれしい情報なのです。
 転移や再発の不安、恐れが入り混じった治療生活から解放されて、苦痛も副作用もない、快適な日常生活を送りながらやがて完治する。そんな夢のような治療法がないものかと探し続けるのです。
 しかし、医学的エビデンスに基づいた治療を指向する良識ある医師は、患者さんを糠喜びさせるようなことは、決して言いませんし、大抵の代替医療や民間療法を否定し、忌み嫌います。
 主治医に、マジナイのような話や、安心感だけの治療を求めるわけではありませんが、代替療法や民間療法には、医学的に信頼性の確立した標準治療では満たされない、切実な願いに光をあててくれるような、独特の魅力があるような気がします。
 無邪気な善意のビジネスが、人びとの心に入り込む隙〔すき〕はそこにあるのだと思います。そして、がん患者や家族や、その周りに多く存在する、善意のコミュニティを通じて拡散していくのです、マルチ商法のように。知らず知らずのうちに、自らが加害者になっていくのです。
 友人の紹介から、健康食品の問い合わせから、患者会から、代替療法の施術者や医師から、インターネットから。
 その中には、善意の仮面を被〔かぶ〕ったオオカミ君もいるのです。もっとも厄介なのは、自分がオオカミ君だと気付かない方々です。
 いわゆる自費診療主体のクリニック系の病院で、代替療法と、美容効果を高める治療・施術をメニューとして同列に掲示しているところは、オオカミ君であることを自覚しているのです。しかし、オオカミ君であることを隠すために、もっともらしいHPやセミナー、出版、空間環境等のプレゼンテーションという衣装を上手に身にまといます。
 藁にもすがる気持ちが強くなると、患者さんには、彼らがオオカミ君とは見えなくなってしまうのでしょう。冷静になれば、美容効果を求める方々の近くで、生きるか死ぬかの治療ができるとは普通は思わないものですから。

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