【対談】 上野千鶴子(社会学者)×福田和香子、奥田愛基、牛田悦正(SEALDs) 対話
- 2016.07.08
- 対談日:2016年2月5日@太田出版 text:磯部涼 photo:江森康之 editorial:北尾修一
上野 今朝(2月5日)の朝日新聞に、瀬戸内寂聴さんとSEALDsの女性3人の対談が載っていましたね( http://www.asahi.com/articles/ASJ1V4DBHJ1VUPQJ002.html )――あの3人とはお友達?
福田 そうです。
上野 で、その見出しが、寂聴さんの発言からとった「青春は恋と革命だ!」だったんだけど、「そんなこと言われてもなぁ」って思っちゃったのね。だから、あの記事を和香子さんたちがどう読んだのかをまず聞きたいと思って。
〝革命〟って、60年代は人を動員出来るマジックワードだったのが、その後、死語になったの。なぜかっていうと、革命というのは「命を革(あらた)める」と書いて、天命をひっくり返すような、社会のOSを総取っ替えするみたいな大激変のことを言う。ただ、時代が進むにつれて、「革命はあり得ない、あるとしたら、部分的なパーツの取っ替えしかない」「市場経済はいかなる体制も否定することの出来ないデフォルトだ」とはっきり分かってしまい、革命が死語になったわけ。
じゃあ、〝恋〟はどうかな? って考えると、それももう死語になったというかね(笑)。60年代、恋もまた女にとってはOSを総取っ替えするような出来事だったのよ。和香子さんにこんなことを言ったら笑われるかもしれないけど、あの当時、「女の人生は男次第」って言われていて。そんなこと、これっぽっちも思わないでしょう?
福田 思わない(笑)。
上野 革命と違って恋は別にあってもいいけど、人生の1パーツに過ぎないというか。もはや自分のOSが総取っ替えされるような経験ではないと、女は40年かけて思うようになった。記事では〝恋〟と〝革命〟っていうキーワードが、寂聴さんの発言から出て来て、対して若い女性3人が「そうですね!」みたいに同意してるんだけど――あれ読んで、どう思った?
福田 私もさっき読んだばっかりなんですけど。〝青春〟〝恋〟〝革命〟っていう3つのワードが入ってこないっていうか、よく分かんない。恋とか青春とかって響きが嫌だし、革命って言われてもビビるし。それって、寂聴さんの世代のワードだから、少なくとも私の世代には通じないんじゃない? と思って。
「青春は恋と革命だ!」って……結局、どれも〝死〟に繋がるワードなんじゃないかな。それがストンと落ちてくる世代は、たぶん、「若くて優秀なまま死んでいくことが美しい」みたいな感覚があったと思うんだよね。そのことを共有出来ている世代にとってのマジックワードっていうか。でも、私にその感覚はないし、で、ハマんなかったんだなって。それこそ、戦争の時に、若くて優秀な隊員が死んでいく。帰ってきたら、「おまえ、ふざけんなよ」ってなる。あるいは、太宰治みたいに若いうちに夭折することが美しいって思う世代?
上野 私だって思ってないよ(笑)。
福田 私にもその感覚がないし、たぶん、そういう燃え上がり方が出来ないから、「うーん」ってなったんだと思う。だから、難しいことは分からないんだけど、SEALDsはそれとは逆のことをしてるんじゃないかな。
上野 そうね。同調できないのが普通だと思うけど、瀬戸内さんは人を乗せるのが超うまいから(笑)。その場は何となく「そうですね!」みたいなノリで終わっちゃったんだと思う。
牛田 僕はまだその記事を読めてないんですけど、「青春は恋と革命だ」ってフレーズだけ聞いたら、まぁ、何ていうかすごくナイーヴな感じですよね(笑)。ただ、これは、僕らが運動を始めた当初からずっと言ってきたことで、SEALDsが目指すのは革命ではない。むしろ、反革命であることが基本だと。
上野 〝反革命〟って言葉は使わない方がいよ。それはそれで別の意味になっちゃうから。革命あっての反革命だから、革命もないところに反革命はない。
牛田 そうか、危ない危ない(笑)。僕が言いたかったのは、SEALDsの運動は日常と地続きっていうか、政治を日常の方に引っ張り込んでくるイメージなんで、革命みたいなものとは違うのかなと。
上野 「革命をやらない」っていうよりも、「革命はもはや不可能だ」って時代に私たちは生きてるからね。それは、すでに様々な社会理論が言ってきたことで。だから、和香子さんが直感で思ったように、かつて「夭折が美しい」と、若くして散っていくヒーローやヒロインに憧れた人たちの時代があって。それが、我々の世代――団塊の世代だよね。
そういう意味で、70年安保闘争の頃までは〝恋〟と〝革命〟というマジックワードが生きていたけれども、その後、約40年間、大規模なデモのない時代が続いたのね。日常の中にデモという風景がなくなってしまって、デモの経験値を持たない人たちが世代として蓄積していって。そして、40年ぶりにまたデモが日常の風景になったことが、私にとってものすごく大きな衝撃だったわけ。2011年の9月に柄谷行人さんが「デモで社会は変わるのか? 変わる。デモの出来る社会に変わる」と言った予測が見事に当たって、「デモなんかやったって……」という、40年間続いた政治的シニシズムが払拭された。その淵源は2015年夏ではなく、2011年3月にあったと私は思うんだけど。
私が感動したのは、国会前にあなたたちの世代と、60年安保と70年安保の経験値を持った、白髪の人たちと毛髪のない人たちがいて(笑)。年齢的に両極がいて、真ん中がいなかったでしょう?
牛田 そうですね。
上野 かつてのデモの経験値を持っている人たちが喜んで出てきたのよ。デモの意味も位置付けも変わってたけどね。そこで、「じゃあ、この40年の空白って何だったんだろう?」って考えるようになったわけ。私としては、40年間の空白を覆してくれた、景色を変えてくれたってことが大きな喜び。それが私のSEALDsの評価。
(ここで奥田が登場)
奥田 すいません、遅くなりました。
――今、上野さんが、瀬戸内寂聴さんとSEALDsのメンバーによる座談会の、「青春は恋と革命だ!」という題名がピンとこないという話をしていたのですが……。
奥田 なるほどなるほど。
――奥田さんも以前、「SEALDsは革命を目指さない」という話をしていましたし、もしくはよく言われることとして、「SEALDsには生活保守主義的な側面がある」と。
奥田 (上野が持参した『NO NUKES voice vol.6』を指して)この雑誌でもそれについて怒られてるし(笑)。
上野 ずいぶんと迷惑な話よね。SEALDsに対してなんで国会に突っ込まないんだ、とオジサンが怒ってるって。それについて喋ってもいい?
去年の夏の国会前で感動したことのひとつに、8月30日に牛田さんが国会に向かって進んでいったデモ隊を止めたことがあったの。それも含めて、私が今回のSEALDsの運動で最も評価してるのが、暴力化しなかったこと。その暴力化しなかったことについて、毀誉褒貶の両方がある。この雑誌のオジサンみたいにいきりたってね。だけど、8月30日のピーク時に、あれだけの人たちが国会前の車道を埋め尽くして……あの光景って本当に40年ぶりなのよ。あの場面で誰かが「行けー突っ込めー!」って言えば、ダーッと人は雪崩れていく。そして、国会の門の前まで行く。門の前まで行けば何が起きるか? 必ず乗り越える人も出てくる。そうしたら、流れは全部変わってしまったでしょうね。直ちに公安が介入して、デモはあっという間に危険なものっていうネガティヴイメージを貼り付けられて、普通の人は参加できなくなる……。まず、それを止めたことが素晴らしいと思う。
もうひとつ、なぜ暴力を問題にするかというと、デモが暴力化するとジェンダー差が際立って、男の子の闘いになっちゃうの。私の昔話なんて聞きたくもないだろうけど(笑)、70年の闘争は、(ヘル)メットとゲバ(ルト)棒が登場してからは完全に男の子のものになった。女の子はそこから排除されて前線と銃後の関係ができた。性別分業そのものね。だから、やっぱり非暴力であることはすごく重要なこと。
奥田 それ以前は男女が一緒にやっていた感じがあったんですか?
上野 あった。だけど、運動って、放っておくと必ず過激になる人たちが出てくるのね。その人たちの方が勇ましくて格好良く見えて、全体がそっちに引っ張られていくの。
奥田 赤軍が登場した時も、最初は凄く格好良かったって言いますもんね。
上野 最初は、おとなしいデモだったのが、路上を埋め尽くすフランス・デモになる。気持ちいいんだわ、これが。次にジグザグ・デモになって、完全に交通ストップする。これがまた気持ちいいんだ。
奥田 (笑)。
上野 そのあたりから機動隊が盾と警棒を持って出てくる。放水車と催涙ガスも出てくる。そうするとさらにエスカレートしていくわけ。今度は自衛のためという理由で、学生がメットを被るようになる。殴られて後遺症が残ったり、脳挫傷で死ぬ人まで出てきたので。だから、もともとメットは自衛のため。あと、写真で見たことがあると思うけど、手拭でマスクをして。あれは顔バレを避けるためと、催涙ガス対策。そこまで行くとデモはもう完全に男の子のもの。
牛田 SASPLの最初のデモにメットを被ってきた人たちがいたんで、「もう来ないでください」って言ったことがあったんですけど、あのひとたちは脳挫傷を気にしていたのか(笑)。そう考えると面白い。
――それが、今やコスプレみたいなものになっちゃってるということですよね。
奥田 まぁ、でも、昨年8月30日の前夜はめっちゃ緊張しましたね。どこまでいってどうなるかっていうのは、いろいろと考えてました。
牛田 奥田くん、テントを持ってきてましたからね。
ーーオキュパイ(占拠)も想定していたと。
奥田 いや、単純にみんな帰らないだろうなと思って。で、その時にオレたちがいなかったとしたら、変な人たちに乗っ取られる可能性があるなと思って。それだったら、最後のひとりが帰るまでオレが残ろうと。実際に最後のひとりだったんだけど、意外とみんな早く帰っちゃって。この人(牛田)とか気付いたらいないし。
牛田 (笑)。まぁ、「残りたい人は残って、僕は帰るんで」っていう。そこは自己判断で。
奥田 次の日も同じぐらい集まればいいじゃんっていうのもあったよね。で、実際、集まったし。
上野 そういう、帰るべき日常があって、運動と連続的に繋がっている感覚がいいじゃない。
奥田 そうですね。
上野 一方で、それを「不甲斐ない」と言うやつらもいるんだけど。ただ、運動が非常時のものになって暴力化すると、兵士と兵士でない者がくっきりと分かれて、兵士でない者は後方支援部隊になる。そうなると、結局、女の子は救援対策とかおにぎり部隊にされて。ほんと、私、おにぎりどれだけ握ったか。だから、今でも上手いんだけどさ。
奥田 (笑)。
上野 非常時はジェンダーの差をここまでくっきりと際立たせるのかっていう。それは、こういう社会運動の場合でもそうだし、あるいは、戦争の時でもそうだし。私の尊敬する森崎和江さんが、戦時下の少女時代に書いた文章で、「戦争に行けない女の屈辱」っていう表現をしてる。兵士になることは、選ばれたということであって、誇らしいこと。そこで、戦う者と戦えない者の間に序列が出来る。女の子は女の子の指定席を充てがわれる。――そういうことがSEALDsの中では起きてないの?
――福田さんはSEALDsの運動の中でジェンダー・ギャップを感じたことはありますか?
福田 あ、めっちゃある。
上野 めっちゃある、のか(笑)。
福田 SEALDsの中でっていうよりも、今の運動のシーンの中で、って感じだけど。8月30日も熱気が凄くて、ちょっと怖かったの。で、泣いちゃって。「これ絶対撮られるんだろうなー」と思ったら、案の定、カメラがいっぱい寄ってきて。そういう、小さいことから始まって、メディアでの使われ方とかバッシングのされ方とか、思い込みなのかもしれないけど、「でも、やっぱりなんか違くない?」っていうのは感じる。
SEALDsとしては、非暴力だし、帰る時は帰るし、っていう日常と地続きのやり方をしてるけど、でも、それに馴染むまではやっぱり非日常だったわけで。だから、自分の生活にポンと入ってきた非日常の中で、それまでは意識しなかった性別の差を意識せざるを得ない局面って絶対にあって。
奥田 そうだね。
上野 メディアとか第三者の視線がジェンダーの差を浮かび上がらせるっていうことだよね。それは、私たちの時代でもあった。学生運動をしてる女子学生って超少数派だったから。そもそも、女の子の進学率が低い時代だったし、どんな女でも目立つわけ。そうすると、「○○セクトのマドンナ」みたいなあだ名が女について、はっきりと美醜で差別される。そこで、マドンナと呼ばれる女子学生もいれば、ブスと呼ばれる女子学生もいて。そういうことはメディアにたくさんやられた。
女子学生が後方支援をやってる時は「救対の天使」なのよ。〝救対〟って救援対策ね。ところが、男の子と同じようにメットを被って前線に出たいと思った途端に、揶揄される。……「ゲバルト・ローザ」って言っても通じるかな?
一同 (首をかしげる)
上野 分かんないよね、歴史的な用語だから(笑)。東大全共闘の中に「ゲバルト・ローザ」って呼ばれた女の子がいて――私は東大生じゃなかったから現場は知らないんだけど、彼女は男性と同じように活動をしてたのね。〝ゲバルト〟っていうのはドイツ語で〝暴力〟っていう意味。〝ローザ〟っていうのはローザ・ルクセンブルグっていう有名な女性革命家の名前。そういうあだ名を奉られて注目を浴びたうえ、とことん揶揄される。
奥田 いや、辛いなぁ。
上野 ゲバルト・ローザさんの本名は知らないけど、その後、彼女はどうしているのか、気になるよね。昔と今とで違うのは、昔はメディアがマスコミぐらいしかなかったけど、今はソーシャル・メディアってものがあるじゃない。私もTwitterをいくらかやってるんで偶然目にしてびっくり仰天したんだけど、和香子さんとか(芝田)万奈さんとか、実名と大学名と学年、全部、晒されてるのね?
福田 うん。別にそれぐらいは好きにしてくれって感じなんだけど。今さら隠すことでもないし。
奥田 いちばん初めの国会前抗議でテレビ局に撮影された時、「名前は出さない」って言われたのに、勝手に調べて出されたんだよね?
福田 そう。それも結局、若い女が社会運動をやってるのが珍しいからだろうし、視聴率を取りたいからだと思うし。それこそ、SEALDsがちょっと有名になり始めた時に、すぐ〝ジャンヌ・ダルク〟って言われたり。女はみんなジャンヌ・ダルク、みたいな。「そんなに火あぶりにしたいのか」って感じだけど。まぁ、言わせておいて、内心、「はいはい」とか思ってる。ネットでのセクハラでしかないようなバッシングもそうだし、ただ、運動に参加してる男の人たちからの持て囃され方の方が途中から気持ち悪くなって。それこそ、〝マドンナ〟まではいかないけど、崇め奉るみたいな。おばちゃんたちは男の子のことをそういう風に扱わないじゃない?
上野 そうね。
福田 抗議中にいつもカメラを向けてくるおじさんがいたり。終わってから、「一緒に写真撮りたい」って言われたり。「何だと思ってんの? 早く帰れよ」とか思って。その写真、何に使ってるのか知らないけど。見た目のこととかもすぐ書かれるのに、男の子には何も言わないじゃない。イベントも、「女の子だから」っていう理由で呼ばれるのはおかしいじゃんって思う。そういう、細かいことならすっごいあるし、SASPLの時はあまり注目されていなかったから気にならなかったけど、SEALDsになってからはずっとそんな感じ。だから、「こんなに進んでないんだ?」と思って。女であることとか、気にしなくて済むと思ってたのに。
上野 ということは、それまではまったくそんなことは感じなかったの?
福田 日常レベルで、「なんで女の子だけ化粧しなきゃいけないの?」とかはあったけど、社会の構造とかはあんまり考えたことがなかったから。
上野 特にマスコミは、カメラの目線が完全にオッサン目線だよね。女の子は目立つし、利用価値あるし。スカートが短い子のところにカメラを向けるっていう。その時に、「マスコミを逆に利用してやろう」ってことも考えてた?
福田 うん。どうやら、「女だから」ってだけで希少価値がついてくるんじゃんと思って。だったら、私たちがやってることを知ってもらわないと意味ないから、それをこっちが利用して、「食われる前に食ってやれ」って。それで、バッシングはよけいに酷くなったけど(笑)。でも、黙ってても食われるだけじゃない?
上野 私はその戦略的な開き直りが見事だと思った。今日はどんなメイクで行くとか、どんなファッションで行くとか、「画(え)になり方を考えてデモに行っていた」って、どこかで発言してたでしょう。
SEALDs×上野千鶴子対談:次のページ