【寄稿】 連載予告:柳田國男で読む主権者教育 トランプの勝利と感情化する世界
- 2016.11.10
トランプの勝利と感情化する世界
ぼくは近著『感情化する社会』の中で以下のように記した。
現在の日本において、左派の立場から言えば、安倍政権や日本会議が北米のティーパーティーやヨーロッパの極右政党に相当する反知性主義的な政治勢力だ、という見立てはおそらく間違ってはいないだろう。しかし、イギリスのEU離脱が国民投票で実現し、その結果にEUからの独立を訴えた政治家たちがうろたえ、トランプがティーパーティーさえ置き去りにして、共和党候補になってしまったように、民意が政治勢力としての反知性主義グループを置き去りにする、という事態が新たに見られる。その点で政権与党やそのバックボーンにある日本会議的な右派を、「お気持ち」と国民感情が一体化することで置き去りにしてしまった今回の事態も同様の現象だといえる。知性と権力の結びつきを嫌悪する感情を利用して政治に影響力を持ちえた旧「反知性主義」勢力を抜きにして、感情が権力抜きで国民化してしまっているのである。それが右派左派どちらに傾斜するかよりも、反知性主義さえも置き去りにされる「感情」的な政治選択がなされうるリスクのなかにいま、世界も、その一部としての日本もある。
(大塚英志『感情化する社会』12-13ページ、2016年、太田出版)
大統領選が始まった当初は、北米の草の根保守であるティーパーティーの人々はトランプでなくテッド・クルーズを支持している、と報じられていた(例えば「アメリカ大統領選で盛り上がるティーパーティ運動」2016年3月18日THE HUFFINGTON POST配信)。その時点でトランプとクルーズは共和党候補内でも異端とされたが、ブッシュを初めとする旧来型の共和党候補だけでなく、ティーパーティーさえ当初は選ばなかったトランプが大統領になってしまったのは、ポピュリズム、反知性主義を利用してきた右派が感情化した有権者に置き去りにされるという世界的な事態が、予想通り北米でより最悪な選択としてもたらされたということだ。フランスでは国民戦線が政権を握ったら、という「もしも」の世界を描いたバンドデシネが昨年刊行されたが、そのディストピアはもはや「風刺」でなく、現実の政治的選択にこの先なって行くだろう。
重要なのはこれが、思想なり知性としての保守の終焉だということだ。はっきりいうが、「保守」があまりにバカになっていないか。首相のブレーンが安岡正篤でなく百田尚樹であるように、あるいは、コスプレが政治家のたしなみと化しているように、保守の偏差値の低下は保守がもはや知性としての姿を保てないことの証左ではないか。
だから日本でも北米でもリベラルを含め、伝統的保守はとうに死んでいる。昨年の安保法制の折り、引退した自民党のかつての大御所が『赤旗』に登場したり、小林節らかつての改憲派がリベラルシフトしたのは、理性としての保守の死への危機意識であるが彼らは見殺しにされた。日本に於ける民進党の低迷はサヨクの死ではなく、このような旧保守の敗北の一部に過ぎない(蓮舫は現に「保守」と公言してはばからないではないか)。北米でも伝統的な共和党政治家が感情化する民意に理性で抗しようとして早々に敗れたのはすでに述べた通りだ。
日本でもこの先、ポピュリズムによる更なる「右派の置き去り」が始まるだろう。その意味で興味深いのは、ヤフーニュースのコメントの変化だ。民主党・リベラルへの罵倒は相変わらずだが、安倍政権への批判が増えている印象で、ぼくには民意がより最悪な選択を求めている気がしてならない。安倍よりもっとバカが求められているのか。安倍よりさらに最悪な選択がどこにあるというのか。
きっとあるのだろう。
維新とか小池百合子のまわりに、多分、出て来る。私たちはトランプを選んだアメリカ人のようにそれを選ぶのだろうがすでに安倍を選んでいるのだから、最悪へのハードルはもっと低い。
では、どうするべきか。
私たちが、民主主義システムをそれでも信じるなら、私たち有権者の主権者として自己回復するしかない。感情的でない主権者をどう育成するか、という主権者教育の提示しか途はない。
だから、またか、もういい、うんざりだ、ほかにないのかと思われるかもしれないが、その手立ては柳田國男の「公民の民俗学」の中にやはりある。
「柳田國男で読む主権者教育」という連載を近々、太田出版のサイトを借りて月一程度のペースでアップしています。「主権者教育」の副読本だと思って下さい。民主主義や憲法、選挙をめぐる柳田の文章(を戦前、戦時下、占領下、書き残しています)を選び、短い解説を付します。
柳田の文章はパブリックドメインなので、ぼくの解説も含め、自由に転載、プリントして下さって構いません。
出張で中国、韓国と回って今月末帰国後、一回めを用意します。