【寄稿】連載第4回:柳田國男で読む主権者教育

【寄稿】 連載第4回:柳田國男で読む主権者教育 「祭礼と世間」を読む/柳田國男の「群衆」論

  • 2017.05.26

※柳田國男「祭礼と世間」の抜粋を、当記事最後部に掲載しています。
大塚英志『感情化する社会』
大塚英志『感情化する社会』
太田出版

 だが、既に触れたように、柳田はこのような「祭礼」による「民意」の表出を支持するわけではない。それは、あくまでも旧来の「公」の形成システムである。
 しかし、一見、暴徒に見える「群衆」は、少なくとも公共性を形成し、自ら表出することは可能であった。つまり、柳田は公共性を自ら形成する主体としての祭礼への参加者を擁護しているのである。その上で、「神輿荒れ」という、祭礼や神と公共性を結びつける「神意」の時代はおわり、「民意」の時代を我々は生きていると説く。新たな「民意」をいかにして創るのかというのが、この書の最終的なといかけである。
 従って『祭礼と世間』はこう結論される。

しかしながら、もしか東北その他の田舎で、わずかに遺った形式を利用して、これによってただの悪戯をするような若い衆があるならば、これ暴民である。もちろん罰してもよろしいが、おそらくそのような者はあるまい。何となれば、すでに民の福利を本とする国家であって、輿論が人の行動を左右し得る今日、これほど煩雑にしてもかつもったいない虚偽を、あえてするにも及ばぬからである。自分はやはり彼等が今もってこれを常道と信じているものと思う。そう信じさせておいて善いか悪いかを決するのは、先輩の任だと思う。
(前掲書)

 こういった旧習慣に替わって、「興論」という新たな公共性のツールが存在する。従って神輿の形を借りた「神意」という、公共性の表出がもはや「常道」ではないと問う必要があると結論していることがわかる。
 では、いかなるシステムが「神輿荒れ」にとってかわるのか。「祭礼」から切り離された公共性はいかに形成されるか。その答えまでは、柳田は示さない。

 信仰物理学は「群衆」を動かす物理的法則を見出そうとするものであった。いわば人をボイドとみなす人間観である。柳田は信仰物理学が認めなかった「民意」形成の主体としての群衆を動かす、物理的法則とは違う社会の法則があると考えた。そして、その社会の法則の更新という問題に最後に行き当たったといえる。それが「神輿荒れ」にかわる「普通選挙」であることは言うまでもないが、まだ、その答えを柳田は見いだしていない。この直後、序文にある通り、柳田は再びジュネーブに渡り、そしてその帰路で関東大震災の報を聞き、普通選挙施行に奔走することは既に述べた通りである。

 柳田がオルデガや、今日のポピュリズム批判者と決定的に違うのは、大衆というものに絶望していないことである。ポピュリズム批判の論者は大抵が大衆への嫌悪やニヒリズム的冷笑に支えられているが、柳田は群衆が発見される時代に、その可能性をかくも擁護している。だから、第一回普通選挙で選挙民の行動がまさに「群れ」であったにも拘らず、「群れ」を「有権者」たらしめる主権者教育としての「公民の民俗学」を立ち上げようとするのである。大衆を嫌悪し嗤うことで、ポピュリズムは超克できない。柳田のこの立ち位置は今も有効である。

『祭礼と世間』より

一六

 余計な事を言いそうだから、もうこのくらいで話を切り上げよう。最後にたった一つ、同情の少ない学者などの批評に対して、あらかじめ弁護をしておきたいことがある。無用の心配であったらかえって幸いである。
 それはほかでもないが、柳田が説のごとくんば、神興の行動はいかなる場合にも、神意にして民意でなければならぬ。しかるに何ぞや、彼等は必ず酔った元気で暴れるではないか。そんな神意があるものかと、こう言って仲間同士、相顧みて笑う先生がないとも言われぬ。
 しかし自分をして言わしむれば、これとても我々日本の士人を知ること、かえってアイヌやカナカを知るよりも少なきの致すところで、つまりは材料持たずの盲評である。そんな神意が果してあったのである。祭の日の夕御饌(ゆうみけ)・朝御饌(あさみけ)に、神に御酒(みき)を供え奉り、また依坐(よりまし)をしてその直会(なおらい)に与(あずか)らしめたのは、もとより単純なる飲料としてではなかった。当世の語で言えば、これを用いて意識の異常状態を発現せしめ、神と人との仲介、すなわち後世のいわゆる御託宣に便ならしめたのである。だからわが邦では神酒を造るのはミタラシの泉、これを掌(つかさど)るはいずれも巫女であった。
 酒を狂水(きちがいみず)などという諺は、狂気を悪い病と見るようになってから用法が変ったが、狂者は昔の社会においては決して憫(あわれ)まるべき者ではなかったので、ただの人間のしたくてもあたわぬ事は皆狂人がした。この事は能の謡の物狂(ものぐるい)の中には、まだ多く現われている。すなわち謎の始め詩の始め、かねがねまた歌舞の始めは、ことごとく神に命ぜられて物狂が、これを世には留めたのである。神興に仕えて古い道徳を宣伝する若者も、やはり神の酒をとうべて、酔わねばならぬ義務があったのである。
 フレエザア教授などは、酒精をスピリットと呼ぶのも、飲んで満身に熱の伝わるのを、霊ありて入り来ると感じた結果だと説いている。それはとにかくに、酒の最初の用途は、まったく人を霊媒にするにあったのである。これを尋常家庭の宴楽に供するのが、すでに第一回の濫用であった。濫用をすればいかなる物でも必ず害がある。禹王(うおう)の尭舜(ぎょうしゅん)よりも少しく偉くないと思われる点は、そのあまりに取越し苦労にして、当時まだ無邪気なりし儀狄(ぎてき)の発明を憎んだことである。胸の狭い矯風(きょうふう)会員達に、禹王以上を望むのはさらに無理かも知れぬが、けしかるけしからぬを論ずる場合には、ぜひとも事の本来の趣旨を究め、かつ同時におよそある限りの社会制度は、始めてこの世に現われた時に、人生を妨げまたは害すべかりしものはなかったということを、明らかに承認してかかってもらいたいものである。
 しかしながら、もしか東北その他の田舎で、わずかに遺(のこ)った形式を利用して、これによってただの悪戯をするような若い衆があるならば、これ暴民である。もちろん罰してもよろしいが、おそらくそのような者はあるまい。何となれば、すでに民の福利を本とする国家であって、輿論(よろん)が人の行動を左右し得る今日、これほど煩雑にしてもかつもったいない虚偽を、あえてするにも及ばぬからである。自分はやはり彼等が今もってこれを常道と信じているものと思う。そう信じさせておいて善いか悪いかを決するのは、先輩の任だと思う。
 酒は前申すことく尊い薬水ではあるが、尚古派(しょうこは)の自分等でも、夙(つと)にこれを家庭に入れぬことにしている。艦用の危険が無限にあって、今の新しい生活と調和せぬためである。そうして代りにシトロンなどを飲んでいる。神興に弊害ありとする有識者のごときも、いたずらに「これ弊害というべきものにあらず」などと論ずることを努めずに、何かこのシトロン様の物を工夫してはどうか。その代りまた一方には、神社中心の地方統一などという策を、案出するの資格はないということを、自覚してかからねばなるまい。かつて神霊の存在を信ぜざる者の祭文沙汰(さいもんざた)くらい、苦々しいものは世の中にたんとないと思う。
(「東京朝日新聞」大正八年五月)

著者プロフィール(大塚英志

大塚英志(おおつかえいじ)1958年生まれ。まんが原作者、批評家。最新刊『感情化する社会』。本書は韓国での翻訳出版が決定。本書に関わるまんが原作としては、山口二矢、三島由紀夫、大江健三郎らをモチーフとした偽史的作品『クウデタア2』、本書に関連する批評として、『物語消費論』『サブカルチャー文学論』『少女たちの「かわいい」天皇』『キャラクター小説の作り方』『更新期の文学』『公民の民俗学』などがある。

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