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大塚英志『感情化する社会』
2016.9.29搬入

 これに対しては、戦後史的には象徴天皇制の完成であり(しかし、ぼくは右派とは違う立場からこれを肯定しない。天皇制は断念されるべきだ、というぼくの立場はとうに表明済みである)、そして世界史的な文脈でいえば、世界中で進行中の「反知性主義」(ということばもぼくは好まない)のその先の事態の最も極端な例である、ということに尽きるだろう。それらの事態を包摂する形でぼくは現行天皇のもたらしたこの現況をひとまず「感情天皇制」と呼ぶ。

 現在の日本において、左派の立場から言えば、安倍政権や日本会議が北米のティーパーティーやヨーロッパの極右政党に相当する反知性主義的な政治勢力だ、という見立てはおそらく間違ってはいないだろう。しかし、イギリスのEU離脱が国民投票で実現し、その結果にEUからの独立を訴えた政治家たちがうろたえ、トランプがティーパーティーさえ置き去りにして、共和党候補になってしまったように、民意が政治勢力としての反知性主義グループを置き去りにする、という事態が新たに見られる。その点で政権与党やそのバックボーンにある日本会議的な右派を、「お気持ち」と国民感情が一体化することで置き去りにしてしまった今回の事態も同様の現象だといえる。知性と権力の結びつきを嫌悪する感情を利用して政治に影響力を持ちえた旧「反知性主義」勢力を抜きにして、感情が権力抜きで国民化してしまっているのである。それが右派左派どちらに傾斜するかよりも、反知性主義さえも置き去りにされる「感情」的な政治選択がなされうるリスクのなかにいま、世界も、その一部としての日本もある。

 このような「感情」が私たちの価値判断の最上位に来て、「感情」による「共感」が社会システムとして機能する事態を本書では「感情化」と呼ぶ。「感情」という語は単に権力者や、あるいは人々の政治選択が「感情的に見える」という意味ではない。そしていまさら、と思えるだろうが、アダム・スミスからぼくはこの語を復興させることにする。

 少し前まで「感情的」であることはネガティブな意味であり、理性や道徳がこれを規するという考え方がごく普通にあった。そのひどく自明なあり方をわざわざ近代の始まりにおいて体系化したのが、アダム・スミスの『道徳感情論』である。そこでは他人の「行為」や「感情」への「共感」が社会構成の根幹に据えられる。しかし、それは「私」の「感情」と他人の「感情」を直接、「共感」させるのではなく、自分のうちに「中立的な観察者」を設け、それが自分や他人の「感情」や「行為」の適切性を判断する基準を形成するという手続きをとる。それが結果として規範、つまりは「道徳」を形成していく。

 このようにアダム・スミスは自明のこととして「感情」が適切な回路を通じて「道徳」化することを疑わず、その過程を検証した。久しぶりに(高校の「倫社」の授業以来だ)読み直したアダム・スミスのこの著が、後で少しだけ触れるように、柳田國男の思考を彷彿とさせ、一定の説得力があることに改めて驚くが、問題なのは、このような回路がいまや失われた、という点だ。その意味で「感情化」とは、「感情」が「道徳」(広義の規範や公共性)を形成する回路を失った事態を指すと言ってもいい。アダム・スミスのあまりに有名な経済における「見えざる手」も、一人の人間のなかに、感情的に自己利益を追求し、「財産への道」を往こうとする「弱い人」(weak man)と、そうではなく、自分にも他者にも倫理的な「徳の道」を往こうとする「賢者」(wise man)がいて、両者の均衡によってそれはもたらされる、と読むのが妥当だ。前者のみが機能するのが新自由主義であることは言うまでもない。新自由主義とは本能的という意味においては「感情」的なのである。

 このように、スミスにしたがえば、いまの私たちはただ、「感情」的であり「共感的」である。しかし「中立的な観察者」が私たちの心のなかにはいない、ということになる。そしてこの「中立的な観察者」抜きでは「感情」はただ互いに「共感」し合い、巨大な「感情」となってしまうだけである。

 言うまでもなく、この内的な観察者は政治やメディアや文学といった形で「外化」され、制度化してきた。「知性」と呼ばれるものもそうだろう。しかし、それらが現に機能不全に陥っていることは言うまでもない。既存のメディアが第四の権力としての信頼性を失ったのも、自ら「感情」化したからにほかならない。そして感情的な政治や感情的なメディアや感情的な文学や感情的な知性がいまやあふれている。

 確かに「共感」によって人は結びつく。それが人間の社会構成の基本的なエンジンであることは、「ミラーニューロン」という他人の感情を汲みとり共感する神経細胞が発見されたことに、ある程度裏づけられているという主張さえある。実際、ミラーニューロンをアダム・スミスと結びつけるコメントは近年刊行されたアダム・スミスの新訳の文庫や、入門書の新書のあとがきに共通して見られる。

 しかし「共感」に対して批評的であること、あるいは「共感」できない感情や行動(つまりは「他者」)をどう理解していくかという手続きを放棄して、「共感」が直接「大きな感情」(とでもひとまず呼ぶ)に結びついてしまうと、そこに出来上がるのは私たちが本来設計すべきだった「社会」なり「国家」とは異質のものとなる。それは社会や国家ではなく、「感情」が共振し、あるいは融解した何ものかである。

 庵野秀明がかつて前世紀に描いてみせた、自他の心的境界が人類レベルで消滅する人類補完計画のような世界が、虚構としてではなく、私たちの生きる世界の具体的な形としていまやある。

 感情天皇制とはその現在形の一つである。

“感情天皇制の起源としての玉音放送”


〈プロフィール〉

大塚英志

大塚英志(おおつかえいじ)1958年生まれ。まんが原作者、批評家。本書『感情化する社会』に関わるまんが原作としては、山口二矢、三島由紀夫、大江健三郎らをモチーフとした偽史的作品『クウデタア2』、本書に関連する批評として、『物語消費論』 『サブカルチャー文学論』『少女たちの「かわいい」天皇』 『キャラクター小説の作り方』 『更新期の文学』 『公民の民俗学』 などがある。

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