スペシャル
金善和(キム・ソンファ)=訳
この論文は、韓国版『自由を盗んだ少年』に第二部として収録されている、西江(ソガン)大学公共政策学科の修士論文として書いたものを、日本の一般読者向けに編集したものです。日本版書籍では未収録となったこの論文を、当ページでWeb公開いたします。
第3章 コッチェビ行為の種類と特徴
■食べ物拾いと物乞い
食べ物拾いは物乞いと一緒にする場合が多く、市場の食料品店や幹部の社宅地域、あるいは食堂の周辺などのゴミの山から生ごみを漁って食べられるものを探す。このような見るに忍びないコッチェビたちの映像は、すでにマスコミで北朝鮮の内部映像として報道されている。[KBS1、1998年12月20日]また物乞いや一芸を披露し人々の同情を誘い、食べ物を得ることもある。
1990年代の初めまではコッチェビをかわいそうに思った旅行者が恵んだ食べ物で命をつなぐことができたが、経済危機が深刻化した1990年代半ばからは、旅行者も食べ物が不足して、コッチェビに同情を施す余裕がなくなった。
■一芸披露
「一芸型」は、コッチェビ自身が持つ特技を活用して食べ物を得るのである。例えばご飯を食べている旅行者や兵士たちの前で「手品を見せたら食べるものをくれますか?」「歌えば食べるものをくれますか?」と声をかけるのだ。手品を見せると言い、針と糸で自分の耳を縫ったり、頬を貫通させたりするなど、自分の体を傷つける行為もいとわない[中央日報、2001年5月8日]。彼らは食べ物を得るために、主に旅行者や女性、軍人など、コッチェビを哀れに思ってくれる相手を探して一芸披露をする。しかし、1990年代半ば以降、食糧難がさらに悪化し、一芸披露でも食べ物を入手できなくなった。
■トプチゲ[ひったくり]
脱北者Cによると、トプチゲは、その地域の下っ端コッチェビの中でも最下層に属する。
1990年代半ばまでは商人のものをパッと盗み逃げていったが、商人たちがそれに対して、売り物に網をかけるなどの防止策をしはじめた。商人たちが商品を守ろうとするとコッチェビたちは、商人ではなく、買い物客にターゲットを変えた。彼らは商人から食べ物を買った人の後をつけ、持っている食べ物をひったくるのだ。とくに子どもや女性、老人を狙った。しかし、買い物客たちも、両手でしっかりつかんで食べるなど警戒を強め、ひったくるのが困難になったのである。
■パジャンクン[ばらまき役]
パジャンクンは網に覆われた商品をひっくり返して地面にばらまくのを専門とする。脱北者Cによれば、パジャンクンは店主の売り物を陳列台ごと地面にひっくり返し、たいていは複数のひったくりと手を組んでいる。パジャンクンは「破壮(パジャン)」という漢字が語源で「壊す」「勇ましい」という意味もある。
だから、パジャンクンは大胆ですばしっこく、物をばらまく役割が主な活動である。商品を保護するための商人の措置に対応して、商品を台ごとひったくるのである。パジャンクンは勇気があり、走るのがとても速く、体格が大きいのが特徴である。脱北者Cによれば、通常の調理品[パン、餅、豆腐ご飯、揚げパンなど]と、食品[小さな袋に入った砂糖、調味料、唐辛子粉、油など]がほとんどだったと言う。パジャンクンの後についていたひったくりが盗んだものを集めて他の商人に安く売り、そのお金で一緒に食事をとったりする。市場がある場所はどこでも、彼らの活動領域である。
■デサク
デサクはパジャンクンよりレベルの高いコッチェビといえる。脱北者Cによると、デサクは適当な袋とカミソリの刃を持ち歩き、狙った人のリュックサックを切り裂きその中身を自分の袋に入れ替えて逃げる行為を指す。デサクは片方の肩に担ぐ買い物用の布の袋のことで、これをタルボとも表現する。
彼らは体にカミソリの刃と一緒に小さなリュックサックを持ち歩き、行訪屋をターゲットにしている。行訪屋は地域を移動し、安値のものを高い地域に売る商人を意味する。彼らは一人がターゲットのリュックサックをカミソリで切り裂いた後、そのリュックサックを持っていて、もう一人が切り口からこぼれる中身を自分たちのリュックサックに入れ、盗んで逃げるのだ。市場よりも列車の時間が迫って混雑する駅前や列車内での活動が多い。彼らは行訪屋に見えるような服を着ているのが特徴である。
■攻撃手(コンギョクス)
攻撃手はスリとも言えるが、少し違うのは、人のポケットからお金を盗むが、うまくいかないときは、デサクに変わることがある点だ。攻撃手は一人で動くことが多く、時折大きなヤマの時は他の人と協力する場合が多い。攻撃手は、たいてい服はこざっぱりしており、一般人と大きく変わらない。脱北者Cによると、青少年の場合はネクタイと少年団の記章を、青年に近い場合は社労青記章と襟に白い着け襟をする場合も多かった。かつて流行した国防色の金正日ジャケットに金正日、金日成の肖像バッジまでつけていたりもする。彼らは家がある場合もあり、家で食べるのが難しいため市場や駅前で食べて、寝るのは家で寝て、昼でも夜でも、他の地域に移動しながら、駅前や市場、走る列車などで活動をする。
■スリ
スリは財布やお金を狙って、市場や列車などで主に活動する。脱北者Cによると、真のスリはモノなどは盗まないと言われるくらい、お金を盗むのを専門としている。ときには列車の客車で活動し数日は腹いっぱい食べることができるお金を一日で稼ぐこともある。手つきが人の目につかないほど速く、被害者が気づくこともほとんどない。コッチェビたちの中でも最も羨望の対象となるタイプであり、身だしなみもこぎれいである。
■ムンチャギ[空き巣]
ムンチャギは、他人の家に侵入し、家の中の器物を盗む強盗を指す言葉だ。非常に大胆で力の強い成人が多い。彼らは主に空き家のドアのカギを開け、家の物やお金になるものを盗み、市場で売って暮らすコッチェビだ。うまく侵入するために良い家を物色して、その家の家族数と彼らの出退勤時間、つまり家が空いている時間帯を知るために数日間監視した後に計画を実行する。
■チャドゥリ
チャドゥリは車輌を利用して大量の荷物を運ぶことを指す用語であるが、コッチェビの間でチャドゥリといえば車や列車に積んでいるものを盗む行為を指す言葉としても使用する。彼らは走る車に上がって載っている荷物を地面に落とすと、待機していた仲間が荷物を持って逃げ、あとで約束した場所で会うというかたちで「組織」として活動している場合が多い。
■ジュルタギ[綱渡り=洗濯物泥棒]
ジュルタギは他人の家の洗濯を盗んで市場で販売することをいう。たいていの洗濯物は、市場で売ることができ、盗んだ服を本人が着たりもする。家の塀を越えて庭にかけておいた洗濯物を盗み、市場で食べものと交換したり、良い服は売ることもある。
■石炭拾い
石炭拾いは駅前の貨物車から落ちた石炭を拾い集めて市場で売り生活することである。もちろん、石炭だけでなく、車からこぼれた肥料、石灰岩、レンガ、屑銅などを集めて売ったり、チャンスがあれば、トラックの荷物を直接盗んで売る場合もある。脱北者Bの証言によると、コッチェビたちは、毎日、石炭を使用する地域を回りながら地面に落ちた石炭を拾い集め、市場に売って食べ物を手に入れる。
■山菜摘み
山菜摘みは、花の咲く春から秋になるまで山を歩き回って様々な山菜を摘み、それを市場で売る行為を指す。ヒメニラ、ワラビ、シダ、タラの芽、オケラ、ツルニンジンなどの山菜を市場に売って生活をたてる。山菜摘みのコッチェビたちは、山菜がなくなる秋から冬まで、他の行為をすることもある。秋には落ち穂を取り、冬にはワカメを拾って食いつないだりする。
■砂金採り
砂金を採る行為は砂金がある地域だけなので、一部の地域にのみ存在する。脱北者Cによると、砂金がたくさん出てくることで有名な場所には、咸鏡北道(ハンギョンプット)セッピョル郡と恩徳(ウンドク)郡があり、ここで出てきた砂金は、売買商を介して中国に密輸されるという。砂金採取は、砂金の密度が高い土をザルに入れて川の水で流すと下に砂金が溜まるのでこれを集めるのである。これも一日中砂金を集めてやっとご飯一杯程度の収入しか得られないため、その日暮らしの生存方法でしかない。
■青(チョン)チェビ
青チェビは青年コッチェビの略である。若さゆえ非常に暴力的で生命力が強い。青年の多くは、工場で働くのが嫌で放浪生活をする。10代に比べて体が健康なので、男性の場合は、大体、暴力的行為を日常的に行うパジャンクン、鍵開け、攻撃手などの活動をしながら生計を立て、女性の場合は、非暴力的な行為である石炭拾い、砂金集め、海産物採取、山菜採りなどをして生活する。
■軍(グン)チェビ
軍チェビとは軍人が所属部隊から離脱して放浪生活をしているコッチェビのことだ。
※訳者注
北朝鮮は徴兵制で健康に問題がないすべての男子は13年の兵役につかねばならない。どこに配置されるかが非常に重要で、身分的に問題がある場合には、条件が悪い部隊に配置がされる。したがって、条件が悪い部隊に入隊する場合、生き残るためにコッチェビ生活を始めるケースが多い。
一般的に、北朝鮮の軍部隊には配給が保障されていると思われているが、実際には軍人たちでも、食糧をきちんと供給されない場合がある。ソウル新聞に掲載された平安北道の軍人のインタビュー内容を見ると、「将校だけに食糧が配給され、質も非常に酷いものだ。食糧が不足する春になると100人のうち50%が栄養不足の状態である」と証言している[ソウル新聞、2011年6月25日6面]。
このような状況で空腹に耐えられず脱走したり、偽除隊をして家に帰ってきたが食べるものがないとコッチェビになる。また、休暇が終わった時、部隊に対する不満から帰隊せずコッチェビに転落するなどその過程は様々である。
■老(ノ)チェビ
老チェビは老人コッチェビのことである。老人の場合、子ども同様、生活能力が著しく低いため、そのまま餓死したり自殺する率が高い。ソウル経済新聞によると、咸鏡南道(ハンギョンナムド)咸興(ハムフン)市で老人のコッチェビ4人が集団自殺する事件が発生したという[ソウル経済、2011年5月1日6面]。
北朝鮮社会は、老人を敬い、親を祀る伝統と家族法制度が維持されていたため、子が親を扶養することを当然視してきた。しかし、経済危機が深刻化し、家族の生活が難しくなると、口減らしのために老親が家から出ていったり、または子どもが親を追い出すケースが発生した。
肉体的な限界に至っても、長い間教育された道徳観のために暴力的行為や反社会的行為に手を出せないのである。同情を引いたり、物乞いで凌ごうとするが、子どもに比べて同情を引くには限界があり、そのまま飢え死にする確率が高い。
■家族(カジョク)チェビ
家族チェビは、家族でコッチェビ生活をしている人たちである。
北朝鮮は公式的に住宅の売買を禁止しているので、家を売る行為は違法であるが、暗黙のうちに盛んに行われているのが現実である。ほとんどは差額をもらって良い家から悪い家に引っ越したり、家を売り他の地域に引っ越したように書類を操作するプロセスを踏む。家を購入する人が大概、家の関連機関に賄賂を渡して売買ではなく譲渡された形で書類を作成するのだ。元の所有者は、家を売ったお金で当分生活し、そのお金がなくなると家族コッチェビに転落することになる。
家族コッチェビは、昼間はそれぞれ食べ物を探し、夕方になると集まって一緒に過ごす家族がいる一方、昼も一緒に行動し食べ物を分けあう家族がいる。家族コッチェビの場合、幼い子どもが物乞いをするための道具として活用される。幼い子ほど人々の同情を引きやすいからである。
■内部(ネブ)チェビと外部(ウェブ)チェビ
地域内でのタイプは大きく、内部チェビと外部チェビに分けることができる。内部チェビの多くは、その地域で実際長期間居住してきたコッチェビを意味し、外部チェビの多くは、他の地域から移ってきたコッチェビをいう。コッチェビたちの間では、活動しやすい特定の地域に関する情報がすぐに回るから、これらの情報をもとに活動する地域を定めて移動を決定する。
農村地域で生活していたコッチェビは、より生活しやすい地域に移動することになるが、このとき、既存のコッチェビと争いが生じる。コッチェビが生活しやすい地域は何らかの行為で簡単にモノを手に入れやすいか、様々な行為の選択が可能な地域である。つまり、農村地域の場合、都市に比べて市場規模が小さいため、違法なコッチェビ活動が簡単にバレる可能性があり検挙の危険性が高いという問題がある。一方、都市の市場は、その範囲や面積が広いため、市場と市場を行き来しながら、何日も活動をしても明るみにならず検挙されにくい。
コッチェビの移動は、その地域でコッチェビ間の争いに発展することもある。
外部コッチェビが活動範囲が広い都市で生き残るために領域侵犯をした場合、内部コッチェビたちは、自分たちの市場を安全に守ろうとするため、衝突することになる。
だから、従来の内部コッチェビたちは、外部から入ってきたコッチェビを脅迫したり、暴力を使って、ときには彼らに分け前をよこすように強制することもある。外部コッチェビたちは、自分たちが活動できないよう牽制する内部コッチェビたちのせいで活動できない場合は、他の地域に再び移動をする場合もある。逆に、外部コッチェビたち同士団結をして、時には内部コッチェビの暴力に対抗して戦うこともある。
■トンチェビと合宿(ハクスプ)チェビ
コッチェビたちの住居形態は、大きく2つに分けることができる。
まず、一般的に多く知られている駅、公園、企業所のボイラー室、ゴミ捨て場、倉庫などで眠るコッチェビたち、これらをトンチェビと呼ぶ。
大部分の企業所や工場にはボイラー室があり、そこはコッチェビが寒い冬を安全に過ごすことができるねぐらだ。同様に、製鉄所のゴミ捨て場も鉄を生産する過程で出てくる熱い灰があるので、厳しい寒さにも耐えられるところである。駅も、多くの人々が行き来する場所で暖かいところである。朝鮮日報によると、寒さに悩まされているコッチェビたちは、冬でも暖かい製鉄所の近くに集まって冷えた体を温めるという。これらのコッチェビの中には製鉄所で使う無煙炭などを盗んで売るものもいるが、保衛隊員にバレて殴り殺されることもときに起こる。
次に、組織的に動き一定の居住地を確保して事実上の合宿生活をして生きていく合宿チェビだ。コッチェビが組織を構成して、特定の建物に集団で生活する方法は、最も人気のある居住形態である。組織を構成したコッチェビたちは、暖かく過ごせる空き家や倉庫などで集まって夜を過ごし、昼はコッチェビ活動をする。このような形態は、寝床が不安定なコッチェビたちの間で人気が高い。
これ以外の住居形態では、昼間はコッチェビ活動をして夕方には、本人の家で生活している自宅型コッチェビたちもいる。自宅に住んではいるが、日中は外でコッチェビ活動をして、夜だけ戻ってきて睡眠をとり、村の統制から抜け出すために、村の人々の目を避けて隠れて通う。コッチェビ活動で得られた食べ物を夜に自分の家で食べて生活する自宅型コッチェビたちは、たいてい服装もきちんとしている。
■情報網
コッチェビたちは他の地域との間の移動が自由なだけに、地域の情報をいち早くキャッチしている。コッチェビたちの情報網は古くからあった。これらの情報網は、基本的には当局の統制を避けなければならず、活動するところの状況を把握しなくてはならないコッチェビの特性ならではのものだ。
他の地域の市場情報を共有することはコッチェビの移動に重要な要因となる。市場の大きさ、商品、外国人利用の有無、市場の数、市場の取り締まりなどの情報を、現在の地域と他の地域を比較することにより、コッチェビの活動がより容易な地域への移動を決めることになる。
該当地域の取り締まり情報は、その地域に定着して生活する中で、検挙される可能性を判断できる非常に重要な情報の1つとなる。安全員たちがどのくらいの頻度で取り締まりをするか、9.27常務組(サンムジョ)が多いのか、糾察隊[キュチャルデ=取り締まりのための組織]と非社(ピサ)グルパがどのくらいの頻度で現れるかの情報を共有する。
■組織化
組織化は、コッチェビの変化を示す重要な特性の一つである。1990年代の初めまでは、強い腕力と能力を持つ一般的な学生の組織に、わずか数人の他の学生が所属し、その組織にお金を上納し、代わりに保護を受ける程度だった。
学校ごとに一番腕力が強いグループに分類される運動部の学生たち、不良学生が存在し、彼らのうち何人か集まって派閥を形成する。これらの派を維持するために必要なのはお金であり、それを解決する方法は、その組織にスリ等が上手なコッチェビを何人か置いて、彼らが盗って来るお金で派を維持する。代わりに、派のメンバーはコッチェビを保護する役割を果たす。チョ・ヨンホの証言によると、70年代に平壌にも、このような連中が小地域ごとに存在しており、自分たちにお金をもたらすコッチェビをめぐって、勢力争いを起こしている[イ・チョルウォン1995: pp.45-47]。
つまり腕力が強い学生が作った組織の保護を受ける代わりに、物質的にメリットを提供する。組織員たちが収めたお金は、組織を運営するために使われ、組織員であるコッチェビが捕まったり、危険にさらされたときに助ける役割をする。組織では、組織員コッチェビが安定的に生活できる家を提供したりもする。しかし、1990年代半ば以降、コッチェビたち自らが組織を構成したり、一般人ボスと多数のコッチェビが組織を構成する形態に変化した。
■1990年以降のコッチェビグループ
コッチェビたちは、1990年代以降は、チェビテと呼ばれるコッチェビグループを形成しながら、お互いを保護する関係を形成し始める。チェビテとは、様々な行為をするコッチェビたちが当面の必要に応じて集合や解散を繰り返す集団を指す言葉だ。
ある地域には、複数のグループがあり、各グループごとに出身地域別の呼び名がついたりする。例えば清津(チョンジン)市の場合、奉天(ポンチョン)派、天岩(チョンアム)派、羅南(ラナム)派などと呼ばれる多くのグループがあり、勢力争いが起きることもある。天岩区域の市場は概ね天岩派が活動するが、ここに水南(スナム)区域の市場で生活していたコッチェビたちが取り締まりを避けて移動してくると争いが生じたりする。
コッチェビ社会でも地域別に縄張りが存在し、普段は緩く繋がっていても、危機になると強く結束する場合が多い。コッチェビが誰かに捕まって殴られた場合、そのコッチェビと親しいグループが集団的に殴った人に恐ろしい暴力を加える。脱北者Aによると、リーダー役をする「頭領(トゥリョン)」がいるという。彼らは助けが必要な状況を認知し周辺のコッチェビを招集して、危機状況に一緒に対処したり、コッチェビたちの間で何かが盗まれることがあれば、メンバーを緊急召集して犯人を探し出したりもする。取り締まり情報がある場合は、コッチェビたちを通して周辺のコッチェビたちに知らせ、取り締まりを避けさせる。このとき、グループが怖い理由は、集団暴力も怖いが、彼らはカミソリの刃やナイフなどの道具を使って暴力を行使するため、いくら丈夫な青年であっても、対処することができないからである。
普段は緩やかな形でそれぞれ活動しながら、散らばって過ごしても、危機を乗り越えるために集まる数は、少ないときで30人、多ければ50人ほどの大群衆を形成することもある[良い友「今日の北韓ニュース」2008年5月16日]。
また、一般の人が多数のコッチェビを集めて組織を構成するケースもある。
「そのコッチェビを率いるおじいさんに会うためには段階があって、最初は会ってくれません。誰でも会えるわけじゃないんです。先輩たちが管理していて、誰にでも会わせてくれないし、のちのちコッチェビたちの中でレベルが少し上がれば会えるんです。そのおじいさんにひと目会おうと頑張って働くコッチェビが多かったです。なぜなら、おじいさんはたくさんお金をくれるから」[脱北者A]
腕がいいコッチェビたちを集めて、彼らを保護してあげる一方、彼らから物質的な利益を得る。コッチェビの場合、いくら腕が良くても、安全に住める空間が必要であり、一般的なボスは、安定した収入源が必要であるため、互いに協力をすることになる。この過程で、序列が決まり、それに応じて上意下達の組織形態を整え始める。
コッチェビのボスはコッチェビ生活を長くする過程で、安定した住環境を持っており、保安員からも恐れられたりする。脱北者Cによると、1990年代半ば清津駅に青龍(チョンリョン)派があったが、その組織は、その地域のコッチェビたちだけでなく、安全員たちも相手にするのを嫌がったという。安全員たちが彼らに言いがかりをつけると、彼らは復讐のために夜にこっそりその安全員の家の前で待ち伏せし暴行したのである。ときには相手が命の脅威を感じるほど恐れられたりした。
保安員たちは、彼らコッチェビのボスを強制的に規制するより、ある程度容認しながら、自分が必要なときに利用したりする。ボスは、保安員から取り締まり情報を得て、自分の組織員が捕まった場合には賄賂を渡し釈放させてもらう力を持っている。
コッチェビ組織はボスからの信頼を得た組織員とその下の専門的な役割を担う専門組織員で構成されている。専門的な組織員たちは、それぞれ固有の名称があり、これに基づいて活動領域もそれぞれ異なっている。
コッチェビの組織化が、北朝鮮社会に及ぼす影響は、彼らが反社会的な活動をすることにより、体制の不安定性をより一層高める点だろう。
これは、コッチェビの2面性ともいえる。また、1990年代に10代だったコッチェビが2000年代に入って、20~30代になり、組織を作り、ボスになり始めてからは、組織の活動がさらに広がった。2000年代にコッチェビ組織が増加したのはそのためである。
■商人の協力と対立
商人とコッチェビは、生活のための協力もしくは対立関係が形成されるしかない関係である。
商人は、商品を守るために、いくつかの対策をとることになる。まず、市場の管理員を買収して、比較的安全な良い場所を確保して商品を守る。第2は、商品を検閲し、取り締まる安全員を買収して、商品を安全な状態におく。しかし、これらの対策にも限界はある。だから用いる3番目の方法が力の強いコッチェビ1~2人を雇用して、他のコッチェビが自分の商品を盗めないよう警戒させる方法だ。
このほか、コッチェビ組織のボスに物品を納める代わりに、他のコッチェビを防いでくれというお願いをすることもある。例えば、食品を売る商人であれば、麺1杯、パン10ウォン分などで謝礼をする。商人からもらった見返りに、組織のボスは組織に属さない他のコッチェビたちに「その商人に手を出すと我々が生かしてはおかない」と警告をするのだ。つまり、敵を利用して敵を防ぐわけである。
2000年代に入って、組織化されたコッチェビが非組織コッチェビを規制して妨害し、市場の秩序を維持し商人たちからインセンティブの提供を受けるなどの協力関係を保っているということは、すなわち、コッチェビ組織が市場を掌握していることを意味するものである。
■自由
コッチェビが何度捕まってもコッチェビ生活に戻る理由は、単に経済的な理由からだけではない。コッチェビ生活から復帰したいわゆる「不良学生」の場合、他の人の厳しい視線に耐えるのは容易ではない。また、すでに自由を味わって戻ってきた彼ら自身が組織生活にひどく嫌気がさすのである。
コッチェビ生活から復帰した不良学生は学校に戻って行くが、このときから再開されるのが組織の生活総和(センファルチョンファ)[自己批判と他者批判をする集会]である。学校の組織統制は、少年団の組織と青年同盟組織に分けられる。少年団は、満7歳~13歳までであり、青年同盟員は14~30歳まで。学校を卒業した後は、企業所の機関、軍をはじめとする社会の青年同盟員などに所属が変わる。
組織生活の中で最も耐えがたいのは自己批判で、これは組織の皆の前で自分の放浪生活を批判して反省することから始まる。自己批判集会の規模は大きくは全校生徒の前で、小さくは同じクラスの生徒の前でおこなう[イ・チョルウォン1995: p.66]。この他にも少年団や社労青の指導員に批判書を提出してチェックを受けなければならない。これらの指導員を自ら訪ねては何度も自己批判をしなければならない等、自分の生活を強く反省しなければならない。それだけでなく、他の学生から厳しい批判を受け、教室の掃除をしたり、他の生徒が家に帰宅した後も、ひとり教室に残って批判書を書くなどの組織的な処罰を受ける。
これらの処罰だけでなく、同じクラスの友達の厳しい視線と集団いじめは、組織生活への懐疑心をより一層強める。「あの子は不良でホームレスでコッチェビだから、あの子と遊ぶと他の友だちからぼくも同じと思われる」という認識から、その子を集団でいじめたり、からかう場合が多い。そして学生の親たちも自分の子もそうならないかと心配してコッチェビ出身の不良学生とはつき合わないように言いきかせたりもする。
不良学生を管理するために、人民班が動員されることもある。人民班では、学校で作られた学習班を集めて一緒に勉強させる一方、不良生徒を監視し統制までする。
「人民班では、学生たちの教育活動に取り組み、不良学生が出ないようにすべきです。両親が職場に通う家庭では、生徒が学校から帰って来ても世話をする人がいないので、人民班長が責任をもって彼らの生活をよりよく組織してやらなければなりません。学生が家に帰ってきたら大通りに出て遊ばないような生活を組み立て、数人ずつ集まって勉強するようにしなければなりません。そうすることで不良学生が出なくなるのです」[金正日、平壌市西城(ソソン)区域の労働者との談話1972年7月11日]
人民班会議では、「誰々の子が放浪生活をしてきており、このような不良の問題を解決するために、当事者の親たちは努力しなければならないし、村の住民は共に子どもたちを監視しなければならない」等の生活総和が行われる。放浪生活をして帰ってきた学生の親も、その責任を避けることはできない。親も村の住民が集まる人民班会議で、子の育て方を間違ったことについて自己批判をしなければならない。これらの強力な組織統制と処罰はコッチェビたちが再び逸脱するきっかけになる。
少年団、社労青組織は、毎週1~2回の生活総和をしなければならず、また、コマ[ちびっこ]計画、学級別の計画などを実行する必要があるが、これは学生個人だけでなく、その学生の家庭にも大きな影響を与える。
コマ[ちびっこ]計画とは自発的に古紙、屑鉄、屑銅などを収集して学校に拠出することである。これは、もともと自由参加だったが、学級の計画を実行するために強制的に割り当てられる場合が多い。これらコマ計画や学級班計画、少年団計画、社労青計画は、学生たちから2重、3重に計画に必要なものを強制的に収めるよう迫り、彼らの負担を増加させた。計画どおりに実行できないと、やはり生活総和で批判の対象とされる。その計画を実行するために、午後の時間に復習をせず学校の外に出て彷徨うのである。強制されたノルマを達成するため古紙、屑鉄、屑銅などを探さなければならないからだ。
■コッチェビに戻るしかない理由
学級によっては「ガソリン」「手袋」、「ニス」、「塗料」、「米」、など学生が収集できない物品も家から持ってくるように強制し家庭に相当な負担を与える。家庭の経済状況が良く、これらの物品を提出できる学生はたとえ勉強ができなくても計画どおり実行したという理由で賞賛を受ける。しかし、家庭の事情が難しく、これを提出できない学生は、それに伴う苦痛のために学校に行かない場合が多い。
「コマ計画を実行できない場合は、学校で毎日罰を受けるんです。復習が終わって他の子たちは家に帰るのに、私達はコマ計画をふたたびしに行かねばならない。だからできない場合は朝早く行って掃除当番と一緒に掃除をして。ひどい話ですよね。毎日、塗料を出せ、米500g出せ、ニスを出せ、ウサギの皮出せ、学校の道路工事に手袋を寄付しろ、学校に石炭を運ぶためのガソリン出せ、金出せ、~を出せ、~を出せ。だから、学校に行かないでどこかで遊んで夜に行って、できませんでしたと言い、そしてまた罰を受ける。そうやって学校に行かなくなる」[脱北者E]
結果的に、学校のように統制された空間での生活は、以前に経験したコッチェビ生活を懐かしく思わせ、学校からの離脱を再び選択させてしまうのだった。